広島投手とコーチの大喧嘩…鬼軍曹が仲裁「やめい!」 酔い吹っ飛んだ“相撲部屋直行”
山本浩二監督になった1989年、白武佳久氏は池谷コーチと口論になった
1989年シーズン、広島監督にミスター赤ヘル・山本浩二氏が就任した。中日・星野仙一監督が就任1年目(1987年)にユニホームをメジャーリーグのドジャースモデルにしたように、山本カープもレッズモデルに変更。乱闘騒ぎもあった山本広島と星野中日の“親友対決”は話題にもなった。先発もリリーフもこなした白武佳久氏(現・広島スカウト統括部長)は当時プロ7年目。この新体制下で、つい熱くなってしまったことがあったという。 【画像】元広島のスター選手妻が大開脚で大胆ポーズ「きれいすぎ」 “投手王国”ゆえに、出番はローテの谷間もあれば、ロングリリーフや1/3だけ投げることもあったが、白武氏は与えられた登板機会を懸命にこなしていった。地方球場でもよく投げた。「昔は狭い球場とか多かったですしね。みんなが嫌がるところでよく投げさせられたイメージはありますね」と苦笑する。「ようは便利屋。そういう感覚でしたね。いつでも行けるように調整もしないといけなかったですからね」。 グラウンド外では仲の良い川端順投手や川口和久投手らとよく繁華街に繰り出し「カラオケで僕はハモり役、メロディーは川端さんでしたね。酒は川口さんや川端さんの方が強かったですよ」と話したが、そんなオン、オフの切り替えもうまくできないとやっていられないくらいだったのだろう。グラウンドでは常に気が抜けない日々。経験した人でなければ、わからない気苦労などもあったようだ。 そんな中で、白武氏の投球回は1986年から100イニングを超えた。阿南準郎監督のラストシーズンとなった1988年は24登板(15先発)、5勝4敗、防御率は自己最高の2.89をマークした。そして1989年、山本体制になった。新たに“鬼軍曹”大下剛史氏がヘッドコーチに、投手コーチには池谷公二郎氏が就任した。「僕は浩二さんや池谷さんが現役の頃、2人に付いてバッグ持ちをしていたんです。浩二派だったんですよ」とさらにやる気になったという。 ところが、思わぬ一件が起きてしまった。「池谷さんに僕がキレちゃったんですよ。打たれた次の日に(名古屋市の)中日の屋内でピッチングして、後輩の紀藤(真琴投手)とか若いのがいたから『ホームをならしといて』ってなるじゃないですか。そしたら池谷さんに『お前が自分でならせ、打たれたくせに』って言われてカチンときてしまった。『池谷さんも打たれたことはナンボでもあるでしょう。その次の日にやっていたんですか!』ってね」。