信頼性が失墜したのは「オールドメディア」という器ではない、そこにいる人間の問題だ
そんななか、練習後の囲み取材のときだったか、中田がある記者に向かって「うじ虫」と面罵したのだ。のちのインタビューでそのときの真意を訊かれた中田は、「そのまんまの意味」といい、「いまでも悪いとは思っていない」と語った。 わたしはこの発言を当時、スポーツニュースかなにかで、実際に見ている(さすがのYouTubeにもその映像はなかった)。 「おー、いったねえ、なにがあったんだ?」と、思った。あの冷静で静かな中田にこうまでいわせたのだから、よほど腹に据えかねたことがあったのだろう、と想像したが、なにがあったのかはわからない。 中田自身も「そのまんまの意味」とはいっても、中身を明かしたことはなかったのではないか。 しかしあれから26年たった現在でも、マスコミの一部の「記者」の体質はまったく変わっていない。 一記者の問題ではない。その上司を含んだ、チーム全体の体質が問題なのだ。 フジテレビの記者(じつは系列局の人間だという)が大谷翔平のロサンジェルスの新居の敷地内を盗み撮りしたり、近隣住民にインタビューをしたりして、報じた。自分たちの「スクープ」だと得意満面だったのだろう。 その結果、大谷はその新居に引っ越しをしないまま、売却を余儀なくされたという。 ドジャースがワールドシリーズで優勝したとき、フジテレビは元巨人選手の元木大介に、大谷のインタビューをさせようとしたが、大谷は嫌悪の表情をあらわにして無視している。 ■ 「俺をだれだと思ってるんだ」 記者たちの傲慢と横暴があらわになった事件を、もうひとつ記しておく。 2013年7月、橋下徹大阪市長が街頭演説をしているとき、街宣車の横にまで入り込んできた中年男がいたため、スタッフが警備上、立ち入らないように注意をすると、男はこう凄んだという。
「俺は安倍首相のときはもっと近くに行ったんだ。俺をだれだと思ってるんだ。朝日新聞の政治部の記者だぞ」 この滑稽な男は当時、朝日新聞京都総局に実在した。ほんとうにいるんだ、吉本新喜劇の芝居に出てくる池乃メダカみたいな男が。 ところがビデオカメラを向けると、この男は一転して「ものすごい丁寧な対応になった」という。どこまで新喜劇なのだ(「俺を誰様だと思ってる、朝日新聞の政治部の記者だぞ」 橋下市長が実名上げた記者はこんな発言したのか、J-CASTニュース、2013.07.22)。 テレビや新聞などの「報道」に携わる者は、自分たちは「記者」であり「ジャーナリスト」だとの自負があるだろう。 仕事は「取材」や「インタビュー」を通して、「ニュース」を作ることである。取材先は警察、検察、政治家であり、怖いものはない(暴力団は別)。 なにしろ自分たちは「真実」を追究し、人々の「知る権利」や「言論の自由」を守る重要な仕事をしているのだから。世間からもそう評価されている。 なかには特権意識が嵩じて無頼を気取るものや、どんな非常識も許されると勘違いしているものも出てくる。 ■ メディアの新旧の問題ではない テレビは、もうあたりまえのように、「このあと最新のニュースをお伝えします」という。新聞社は当然のごとく毎日、新聞を発行している。 だが、だれが頼んだわけでもないのである。報道機関は「勝手に報道する自由」でやっているだけである。 江戸時代の瓦版とおなじで、「てやんでぇ、てやんでぇ、事件だよ」と勝手にやっているだけだ。火事や事件や事故があれば、現場に駆け付ける。他社に負けないように。 そこで「取材」とやらをする。しかし実際にやっていることは、火事場や事件・事故現場に集まるただの「野次馬」や「覗き見」と変わらない(そして、それを見るわたしたち視聴者も「野次馬」や「覗き見」になる)。 「記者」だ、「報道」だ、「言論の自由」だという。しかし、そんな立派なお題目を取っ払ってみれば、「記者」といっても、もしくは「デスク」や「ディレクター」といっても、欲も見栄も人一倍ある、ただの男であり女にすぎない。 だから、問題は「オールドメディア」か「ニューメディア」かの問題ではない。どちらも玉石混交で、欲や見栄が動機である点ではおなじである。