信長を二度裏切った松永久秀が執着した「地位」
■三好政権で枢要な「地位」を得た松永久秀 松永久秀(まつながひさひで)は三好家を利用して室町幕府を衰退させ、13代将軍足利義輝(よしてる)を殺害し、信長に仕えた後も二度にわたって謀反を起こした悪人のイメージが強い武将だと思います。 しかし、実際は三好政権の重臣として長慶(ながよし)に尽くし、幕臣として幕政を助けており、義輝の襲撃にも直接的には関与していません。また信長の上洛を助け、室町幕府の再興に貢献し、再び幕臣として15代義昭(よしあき)に仕えています。 その後、信長に反旗を翻すことになりますが、これには久秀が理想としていた自身の「地位」が関係していると思われます。 ■「地位」とは? 「地位」とは辞書によると「社会や組織などの中での、その人の置かれている位置。その人の身分や能力などの段階。くらい」とされています。 また「地位」と「役割」は表裏一体のもので、人が社会や集団の中において役割を担う際には、それに伴う一定の資格や権限を持つ地位を得ています。組織内において枢要な「地位」を失うということは、重要な「役割」を期待されていないという事になります。 久秀は、三好長慶の元で高い「地位」を得て幕政にも関わるほど活躍するものの、長慶の死後は「地位」が低下していきます。しかし、それに甘んじず抵抗を続けていきます。 ■松永家の事績 松永家の出自は阿波国、山城国、摂津国などの土豪と諸説あり、確かではありません。1533年ごろに三好長慶の側近として仕え、長慶が畿内に進出したあたりから活動が見られるようになります。 長慶が三好政権を樹立すると、三好家の重臣として頭角を表していきます。当初は文官として重用されていましたが、相国寺の戦いなどで武官としても活躍をしています。そして、長慶の引き立てにより幕臣としての活動も増えていきます。 三好家の家臣でありつつも、幕政への関与も増加していきます。1560年には筒井順慶(つついじゅんけい)や興福寺を破り、大和一国を支配下におく事に成功し、国持大名のような地位も得ています。 そして三好政権は、長慶のもとで畿内・四国を含む13カ国にまで版図を拡大していきます。