信長を二度裏切った松永久秀が執着した「地位」
■三好政権で重用された久秀 久秀の主君である長慶は、後に信長が掲げる天下布武の先駆者とも言われ、細川家の家臣筋でありながらも、一躍室町幕府を主導する存在となります。その期間を三好政権とも言われます。久秀は、長慶の家柄や格式に拘らない人事の恩恵を受けて、幕政にも関わりを持つようになりました。 その結果、織田政権で重用された秀吉たちのように、身分を超えた出世を遂げ、三好政権において非常に高い「地位」を得ます。 1560年に義輝の御供衆に任じられると、その後、弾正少弼(たんじょうしょうひつ)に任官され、1561年には従四位下に昇叙されています。また、筒井家や興福寺との争いを制し、大和一国の支配を任され、大和守護のような「地位」も得ています。この頃から、義輝の元で幕政に関与することも増大し、久秀の「地位」は天下人である長慶に準ずるほどに高まります。 しかし、長慶が死去すると、親政を狙う義輝との闘争や三好三人衆との主導権争いが起こり三好政権は瓦解を始めます。それと共に、久秀の「地位」も低下し始めていきます。 ■織田政権での「地位」の回復と低下 宿敵である筒井順慶に居城の信貴山城(しぎさんじょう)を落とされた久秀は、起死回生を図るために、義昭を擁する信長の上洛を手助けします。この戦略は功を奏し、15代将軍となった義昭の元で、再び御供衆として幕政に携わるようになります。 また、織田軍の協力を得ながら筒井家の排除に成功し、大和国の支配権を取り戻します。こうして、久秀はかつての枢要な「地位」を取り戻せたように見えましたが、信長を中心とした政権が運営されるようになると、久秀は三好家の宿老もしくは諸侯の一人という「地位」へと低下していきます。 そして領土問題について義昭に介入され、織田政権に反旗を翻すことになります。 しかし、武田信玄(たけだしんげん)が西上作戦の途中で死去すると、信長包囲網は瓦解し久秀は降伏します。先に信長に臣従していた筒井家が大和国の支配を任されることになり、久秀は一城主へさらに「地位」を低下させてしまいます。 そして、再び幕臣として起死回生を図ろうとしたのか、単に大和国の主導権を筒井家から奪取しようと考えたのか、義昭が主導する信長包囲網に呼応します。本願寺攻略戦から兵を引き上げ、信貴山城に籠城しますが、最終的に織田信忠(おだのぶただ)率いる大軍に包囲され滅ぼされてしまいます。 ■想像以上に回復が難しい「地位」 久秀は長慶の元で重用されていたころは主君を裏切ることはありませんでしたが、長慶の死後は周囲との対立と和睦を繰り返すことになります。その結果、狡猾な武将という印象が根付き、戦国時代の三大梟雄(きょうゆう)というイメージへと繋がりました。 ただ、「地位」という視点からみると、久秀は政務に携わりたいがために、枢要な立場へ固執していたように思われます。 現代でも、時代や環境の変化に抵抗し、組織内での「地位」に拘った結果、職場を転々とする事になり、逆に経歴と評判を汚してしまう例は多々あります。 もし、久秀が信長の配下のままで本能寺の変を迎えていたら、武家として松永家も存続し、久秀の悪評も生まれてなかったのかもしれません。 ちなみに信長は最期の裏切りについても助命を考えていたと言われており、信用を置けない人物としながらも、茶人、文化人としては久秀を非常に高く評価していたようです。
森岡 健司