愛子さまと卒論テーマの式子内親王:和歌から学ばれた大切なこと
斉藤 勝久
大学を卒業して日本赤十字社勤務の社会人になられ、国民の注目度が一段と高まった天皇家の愛子さま。「大学における学業の集大成として書き上げた卒業論文」と述べた愛子さまは、テーマである鎌倉時代初期の式子(しょくし)内親王の和歌から何を学ばれたのか、国文学研究資料館長の渡部泰明氏に聞いた。
中世を代表する女流歌人
愛子さまは今年3月、学習院大学の卒業にあたり、宮内記者会への文書回答で卒論についてこう述べている。 「中世の和歌の授業を履修する中で、和歌の美しさや解釈の多様さに感銘を受けたことから、中世を代表する女流歌人の一人であった『式子内親王とその和歌の研究』という題で執筆を致しました」(要約) 式子内親王は平安末期の1149年、後白河天皇の第3皇女として生まれた。11歳の頃から10年間、葵祭(あおいまつり)で知られる賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)に奉仕する未婚の皇女「斎院」を務めた。賀茂斎院は伊勢神宮の斎宮(斎王)と並ぶ皇女の重要な務めで、姉は伊勢斎宮となった。 平家が台頭した時代で、式子内親王が31歳の時、父の後白河院は平清盛によって幽閉され、翌年、弟の以仁王(もちひとおう)が平氏追討を源氏に促す命令書を発して挙兵したが、敗れて亡くなった。やがて平家は後白河院の孫にあたる安徳天皇とともに滅亡し、源氏の時代を迎える。42歳ごろに出家した式子内親王は、源平盛衰の動乱期を生き、1201年、53歳で亡くなった。 400首ほどの和歌が残されており、その3分の1以上は天皇や上皇が編さんを命じた勅撰集に入っている。特に後鳥羽上皇の勅命で、鎌倉時代を代表する歌人の藤原定家らによって編さんされた「新古今和歌集」には、女流歌人では最多の49首が収められている。歌人でもあった後鳥羽院は、伯母にあたる式子内親王の歌をとても賞賛していた。
1000年を超える伝統の継承
愛子さまが約850年前の式子内親王の和歌を研究された意義は何だったのか。渡部泰明氏はこう話す。 「式子内親王は大変な勉強家で、約200年前の『源氏物語』や、『古今和歌集』(平安初期の最初の勅撰和歌集)など当時の古典も多数読み、十分な教養を身につけた一流の文化人でした。女性たちが集う文化的なサロンも主宰し、式子内親王の和歌の師である藤原俊成(定家の父)の娘も女房(侍女)だったので参加していた。源氏物語などの一節を詠み込んだ優れた歌をつくるなどして、新しい文化を創り出す原動力となったのが式子内親王なのです。源氏物語がその後、男性を含めた多くの人たちに読まれるようになったのは、式子内親王のおかげとも言えます」 「そんなずば抜けた皇族歌人を愛子さまは研究の対象にされた。私見ですが、愛子さまは伝統の継承に気付かれたのでしょう。和歌は歴代の天皇も自ら詠み、また勅撰和歌集に当時の優れた歌が収録されてきたので今日に伝わり、皇室と深いつながりを持っている。愛子さまは1000年の時を超える伝統のすばらしさに気付かれ、ご自分も和歌の精神を受け継ぎ、次の世代に受け渡すということを理解されたのだと思います」 今年1月の歌会始で愛子さまはこう詠まれた。 幾年の難き時代を乗り越えて和歌のことばは我に響きぬ 「この歌は和歌を学んだ方にしか詠めない歌です。愛子さまは『我に響きぬ』と若くして和歌の心を理解された聡明な方であることが、この歌からもよくわかります」(渡部氏)