【アメリカン・アキタ誕生秘話】米兵に秋田犬を伝えたのは誰か? 忘れ去られたブリーダーの挑戦と挫折
国内外で人気の「秋田犬」だが、「アメリカン・アキタ」という犬種がある。元を辿れば名前の通り秋田犬なのだが、なぜアメリカで別の犬種となっているのだろうか? 今回はそのカギを握る1人の秋田犬ブリーダーの挑戦をご紹介する。 ■戦後日本で一世を風靡した「金剛号」の栄光 みなさんは、アメリカン・アキタという犬種をご存知だろうか。大型の洋犬で、全身に大きな斑模様があるのが特徴だ。アキタという言葉が入っているように、源流は秋田犬にある。 しかし、それがどうしてアメリカン・アキタになったのか。これは6月24日の記事「絶滅の危機に瀕した秋田犬を守れ!」に続く物語でもある。アメリカン・アキタ誕生の経緯は、どこでもこう説明されている。 「敗戦後、日本に進駐してきた米軍兵士の間で、秋田犬が人気を呼んだ。唯一の大型犬だった上、もともとハチ公が有名で、ヘレンケラーが秋田犬をもらったこともニュースになっていた。そこで米軍兵士が帰国する時に連れ帰り、現地で繁殖されて現在の形になったのである」 実際その通りなのだが、こういう説明には、アメリカン・アキタ誕生のきっかけを作った一人の日本人の名が消えている。その人間の情熱にあふれた、かつ波乱に満ちた人生を知ると、この物語に血が通って感慨深いものになる。 その人物とは戦後の一時期、一世を風靡した秋田犬のブリーダー、橋本平八である。昭和の戦争前から秋田犬に関わっていた橋本は、大館に犬を探しにきて、昭和22年(1947年)生まれの金剛号に出会った。これが橋本の運命を決める。金剛号は洋犬色の強い出羽系の秋田犬だった。 生後10ヶ月の金剛号は、田園調布のハシモト犬舎に移った。金剛号の可能性を見込んだ橋本によって大事に飼育され、昭和24年(1949年)に開かれた、戦後初の日本犬保存会本部展で高い評価を得た。 橋本は多大な情熱を傾けて、金剛系の確立と拡大に尽力した。市場戦略にも長けており、金剛号に「国宝犬」と言うキャッチフレーズをつけて、渾身の大宣伝をした。 展覧会に出る時は必ず、真っ白なワイシャツに立派なチョッキを着て、靴下はもちろん下着に至るまで真新しいものを着る。そしてリングで立ち込みを決める時には、帽子をさっと上に放り投げる。 その都会的な感覚と派手な演出は、秋田県の関係者を驚かせた。「金剛号にあらずんば秋田犬にあらず」と言われるほどの人気を博し、一世を風靡したのである。 昭和27年(1952年)には後楽園球場で、『愛犬の友』主催による全犬種参加の国際畜犬展覧会が開かれた。そこで金剛号が一席になった時、橋本の喜びは頂点に達した。 橋本は『愛犬の友』に出した宣伝写真に、こういう言葉を添えている。「ああこの感激、例え我が子が一国の宰相になったとてこの感激はあるまい」。金剛号は翌年に出た『日本犬大観』の表紙も飾っている。この本は、戦後日本犬界の状況を伝える貴重な本である。 後に秋田犬協会副会長になった岡田睦夫は当時、日吉の慶應中学に通っており、帰りによく田園調布のハシモト犬舎に寄った。金剛号はゆったりとした性格で、居間の大きな座布団の上に寝そべっていて、岡田らが入ってきてもチラッと見るだけで動かなかった。 橋本は「坊ちゃん、坊ちゃん」と言って岡田らを歓迎し、いつも威勢のいい話をして楽しませてくれた。熱血漢でエネルギーにあふれていて、話を聞いていて気持ちがよかったという。 ある日、いつものように学校帰りに立ち寄った岡田は、何気なく橋本に、後継犬はどうするのかと聞いてみた。橋本の答えはこうだった。「剛チャンの後継なんて考えられない。剛チャンが死んだら私も死ぬんだ」。 これには岡田も驚き、かつ感動した。「営業面のことを割り引いたところで、これだけの情熱は大したもので、この人犬一体の熱情があったからこそ歴史に残る金剛の橋本、だったのだろう」(「犬界回想録27」終戦後の秋田犬ブームの一翼を担った橋本平八氏『愛犬ジャーナル』昭和60年/1985年7月) ■海を渡って花開いた「アメリカン・アキタ」の人気 しかし、金剛号の血統である出羽系はかつて入った洋犬の血が濃く、目が肥えてきた人々から次第に疑義を持たれるようになった。そんな中、本流であるマタギ犬の血を引く一ノ関系から生まれた五郎丸号が、展覧会にデビューしたのである。そして金剛号から五郎丸号へと、一気に主役が交代した。 評価が下がり人気が落ちたことで金剛系は凋落する。金剛号が死去すると、橋本は次第に犬の世界から手を引いていく。そしてハシモト犬舎をたたみ、同所で焼き鳥「平八」を開業した。やがて関係者に、橋本の訃報が伝わってきたのだった。 「剛チャンが死んだら俺も死ぬんだ」と言っていた橋本は、情熱の全てを注いだ金剛号と共に燃え尽きた。全盛期、橋本は「金剛号の独り言」という一文を書き、こう言わせている。「よく働いて儲かっているだろうと云う人がいるが、そんなではない。平八が呑んでしまっている」 実際にはそんなことはなく、利益が上がっても惜しげもなく犬に注ぎ込んだのだろう。晩年は失意の日々だったと思われる。金剛系の人気は泡のように消えて、忘れ去られた。橋本の秋田犬人生は無駄だったのだろうか。 金剛号の絶頂期は、在日米軍兵士の間で秋田犬の人気が出た時期と重なった。橋本のところにはよく兵士が訪れた。橋本は連れて帰りたいという希望に応え、帰国してブリーダーになりたいという人間を応援して、いい犬を譲った。 その成果は程なくして現れた。アメリカで秋田犬が注目されるようになり、昭和31年(1956年)1月にカリフォルニアで開かれたドッグショーで、秋田犬のほまれ号が賞を得たのである。この犬こそ、橋本平八が送り出した犬だった。 金剛系はアメリカに土着して変貌する。それは日本の関係者を困惑させたが、前述の岡田睦夫が「もはやアメリカン・アキタとでも言うしかない」と述べたことから、この名前がついた。 金剛号に賭けて利益も全て注ぎ込み、栄光ののちに凋落していった橋本の生き方は、人生設計や投資を至上とする今の価値観からすれば無謀に見える。しかし、計算を度外視したその情熱は、国境を超えてアメリカン・アキタという遺産を残した。 絶滅寸前の日本犬を救うため日本犬保存会を創立し、財産を全て注ぎ込んだ斎藤弘吉は、死の床で何度も「愚人」という言葉を書いた。岡田睦夫はその意味がわかって涙が出たという。
川西玲子