東日本大震災で亡くなった娘に会いに、来日したアメリカ人男性が日本で見たもの #知り続ける
消え去った美しい港町の風景
翌日の3月23日午前8時30分、アンディーはマイクロバスに乗って娘が勤務していた宮城県石巻市へと向かった。車中ではテイラーの親友で、やはり石巻市で外国語指導助手を務めていたという台湾系アメリカ人のキャサリン・シューが、娘についての思い出話を聞かせてくれた。 「テイラーはいつも明るくて、一緒に浴衣を着て何度も地元のお祭りに行ったの」 「彼女、笑い出したら、もう止まらないでしょ。日本が本当に大好きで、将来は日本とアメリカのために働きたいって言ってた……」 マイクロバスの車窓から見える仙台市中心部の風景からは、津波の影響をあまり感じることができなかった。だから、アンディーは娘の親友が話す思い出話に耳を傾けながらも、心のどこかで駐日アメリカ大使館からもたらされた情報は、あるいは何かの間違いなのではなかったかと疑わずにはいられなかった。 しかし、マイクロバスが宮城県沿岸部をかすめる国道45号に入った途端、周囲の風景が暗転した。空気が急に重たくなり、道路は見渡す限り砂や泥に覆われ、至る所で車がひっくり返っている。沿道のパチンコ店やファストフード店の入口はどれもガラスが打ち砕かれ、電信柱がなぎ倒されている。 路上に散乱する障害物に遮られ、マイクロバスはやがて前に進むことができなくなった。運転手は仕方なく多賀城方面から利府方面へと進路を変え、途中から宮城県が用意した緊急車両の通行証を使って通行規制中の三陸自動車道をゆっくりと進んだ。途中、関西や九州のナンバープレートを付けたパトカーや消防車が、赤色灯を回しながらマイクロバスを追い越していった。 石巻が近づいてくると、同乗していたキャサリンが泣きじゃくりながら言った。 「こんなの私が知っている石巻じゃない。あんなに美しい港町だったのに……」 三陸自動車道を石巻港インターチェンジで降りると、マイクロバスは泥の上を這うようにして石巻市の旧青果花き地方卸売市場へと滑り込んだ。震災後、地震の被害が軽微だったため、臨時の遺体安置所として使われている場所だった。