【今週はこれを読め! ミステリー編】先がまったく読めない犯罪小説~ペトロニーユ・ロスタニャ『あんたを殺したかった』
何をされてもいいや、もう。 ペトロニーユ・ロスタニャ『あんたを殺したかった』(池畑奈央子監訳・山本怜奈訳/ハーパーBOOKS)を読んでいるときの感想である。あ、さすがに殺されるのは嫌なのだけど。 2022年に刊行された作品で、本国ではコニャック・ミステリー大賞を受賞している。1996年に創設された賞で、ミステリー以外に映画やコミックなど複数の文化部門が現在では設定されている。毎年コニャックで開催されるフェスティバルで受賞作が発表される。最近の受賞作で日本でも話題になったのは2011年のベルナール・ミニエ『氷結』(ハーパーBOOKS)と2019年のジェローム・ルブリ『魔王の島』(文春文庫)だろう。 特に『魔王の島』がそうだったのだが、フランス・ミステリーにはときどき、作者はいったい何を言っているのだろうか、と途中でページを閉じて考え込みたくなる作品がある。あまりにも予想外の展開になるので、もしかしてこれまで誤読をしていたのだろうか、と心配になるのである。ミニエにもそういうところがある。『あんたを殺したかった』も、『魔王の島』ほどではないが先がまったく読めない小説である。 〈わたし〉と称する人物の視点で物語は始まる。〈わたし〉は、どこかの敷地に車を運転して入ってくる。トランクから降ろすのは20リットルのガソリンである。山のように薪を運んだあとの仕上げなのだ。薪の山にガソリンをかけてライターで点火する。〈わたし〉の次のような内的独白を最後に短いプロローグは終わる。 ――こんなに嬉しいことってある? だって、あんたの最後の断片が消えようとしているんだよ......。 あんたっていったい。 フランス・ミステリーにはよくある、短い章が重ねられていく形で本文は進んでいく。第1章で視点人物となるのはローラ・テュレルという若い女性だ。警察署にやってきたローラは「人を殺したんです、わたし」と告げる。それによって第2章で呼び出されるのが、ヴェルサイユ警察署犯罪捜査課班長のダミアン・ドゥギール警視だ。彼がもう一人の視点人物になる。ダミアンに尋問されたローラは訴える。ブリュノ・ドゥロネという男性に性的暴行を受けそうになり、身を守るためにそばにあったアイロンで殴り殺してしまったと。正当防衛だと主張するローラだが、死体をどうした、埋めたのか、と聞かれると激昂して叫ぶ。 「まさか。それよりずっといい方法があったから。燃やしてやったんだよ、あのブタ野郎を!」 ダミアンは思案に暮れる。自分が今取り調べているのは、涙にくれるレイプの被害者なのか、それとも単なるサイコパスなのか、と。ローラの言動が不可解で、警察に逮捕されたがっているようにしか見えないことが本書の肝で、何を考えているのかがよくわからないのである。彼女の主張ではドゥロネを殺したのは6週間前のことだというのだ。今まで露見していなかった犯罪を、なぜ今さら告白しようとするのか。さらには弁護士をつけられることにも消極的で、自分の準備してきた証言をすべて述べてしまうと、ローラはただ時間が過ぎるのを待つようになる。実は彼女には刑務所での服役経験があることもすぐに判明する。 前述のとおり、めまぐるしく小説の様相が変化すること自体が読みどころの作品だと思うので、あまり先のほうについては書かないでおこう。ローラは嘘で固められたような登場人物なので察しがつくと思うが、警察が殺され焼かれたというブリュノ・ドゥロネの痕跡を捜そうとしても上手くいかない。そして代わりにとんでもないものを見つけてしまうのである。そういう形にどんどん撚れていく。最初に見えていたほど単純な事件ではないということが次第にわかってくるが、そのねじれ具合に何らかの作為が加わっているかどうかは不明なのである。ダミアンは育児に悩まされている妻を放置して仕事に逃げているという引け目がある主人公で、その家庭人としての駄目さ加減が彼に対する感情移入を妨げる。読者と登場人物の間にそのくらいの距離があったほうがいいのかもしれない。誰が悪いやつかわかったものじゃない、というくらいの不信感を持って読むべき小説なのだ。酷薄な話だ、誰も信用しちゃいけないんだ、と思いながら読んでも、人間関係の裏切りが描かれるとびっくりする。こういうからからに乾いた犯罪小説が好きな人にはぴったりと嵌まるのではないかと思う。ユベール・モンテイエとか、ああいう感じがお好きな方にぜひお薦めしたい。 小説の構造について書いておくと、だいたいこういうことが行われたのだろうな、という見込みは最初から与えられる。ダミアンも読者も、馬鹿ではないので真相にかなり近いところまでは想像可能なのである。ただ、混乱を招く迂回路のようなものがあって、そこに迷い込まされてしまう。目の前に見えているのにたどり着けないもどかしさを味わうべきなのだろう。 ローラが動機としてレイプに対する正当防衛を訴えることからも察せられるように、根底には野放しにされる性犯罪への抗議がある。これほど被害者に同情することができない小説も珍しい、と書いておこう。ただ、一筋縄ではいかない作風なので、わかりやすい感情に支配されだしたら読者は少し立ち止まって落ち着いたほうがいいと思う。そういう気持ちも利用しようとする作者だからだ。本当に、何をしてくるかわからない。もういいや、何をされても。 (杉江松恋)