世界最高峰・マン島TTレースを完全制覇したホンダ、倒産危機の中でも本田宗一郎がブレずに追い求めたもの
近年、自社の経営理念を見つめ直し、パーパスを制定する日本企業が急増している。そうした中、「パーパスをはじめとする“流行の経営用語”には落とし穴もある」と警鐘を鳴らすのが、一橋大学名誉教授の伊丹敬之氏だ。経営トップは経営理念やパーパスの役割をどのように理解し、活用すべきなのか。2024年7月、書籍『経営理念が現場の心に火をつける』(日経BP 日本経済新聞出版)を出版した伊丹氏に、経営理念を用いて組織を飛躍に導くメカニズムについて聞いた。(前編/全2回) 【画像】伊丹敬之『経営理念が現場の心に火をつける』(日経BP 日本経済新聞出版) ■ 「人間を動かす」には何が必要なのか ──著書『経営理念が現場の心に火をつける』では、経営理念を用いて従業員や組織を飛躍に導くメカニズムについて、実例を交えて解説しています。優れた経営を行う上で、経営理念が果たす役割とは何でしょうか。 伊丹敬之氏(以下敬称略) 本田技研工業の創業者、本田宗一郎氏(以下、本田氏)の「人間を動かすスパナは哲学である」という言葉が、その答えを提示しています。 本田氏が伝えたかったのは「哲学が従業員の心に火を点ける」ということでしょう。哲学や理念といった一見抽象的なものが経営においては大きな役割を果たすのです。 ──著書では、本田氏が創業間もないころから社内報や工場での朝会など、さまざまな場面で経営理念や自身の経営哲学について発信していたことを紹介しています。そこにはどのような目的があったのでしょうか。
伊丹 これは本田氏が若い頃の体験から「人間を動かすのは哲学である」と実感していたからこその行動であり、情報発信の目的は2つあったと考えています。 1つ目は、何度も繰り返し企業理念を伝えることで、従業員に「社長は本気なんだな」と思わせることです。2つ目は、さまざまな機会を設けて企業理念を発信し続けることで、「1人でも多くの従業員に確実にメッセージを届けること」だと思います。 組織にはいろいろな人がいますから、文章を使った方が心に刺さる人もいれば、直接声を聞いた方が胸に響く人もいるでしょう。しつこいと思われるくらいに何度も発信を続けたことは、本田氏なりのコミュニケーションの工夫であり、それほど経営理念を重要視していたと分かります。 ■ パーパスを制定する企業にありがちな「誤った認識」 ──今回の著書で「経営理念」をテーマに選んだ理由は何だったのでしょうか。 伊丹 昨今よく耳にする「パーパス」「ミッション」「バリュー」といった横文字がただの言葉遊びになっていることに警鐘を鳴らしたい、ということが理由の一つです。 本田氏が言うように、企業経営において哲学は非常に重要です。しかし、それは「戦略」が先にあってこそです。「いい戦略」に「いい哲学」が加わって、初めて「素晴らしい経営」が実現します。つまり、戦略より先に経営理念を持ち出すのは順序が違います。経営理念は重要なものですが、それを「理念さえあれば、それだけで人は動く」と拡大解釈するのは誤りです。 戦略論と経営理論の世界的権威である経営学者リチャード・P・ルメルト氏は、著書『戦略の要諦』において、自身は戦略を打ち出さず「経営理念を練り上げたのだから、これで現場の人たちが動いてくれるはずだ」と思考停止に陥るCEOの過ちを指摘しました。現代の日本企業の経営トップも、こうした過ちを犯している人がいるのではないでしょうか。 もう1つ、本書を通して伝えたかったのは「経営者自身が経営哲学を持たずして、現場に経営理念を植え付けようとしている」ということの矛盾です。果たして、従業員はそのような経営理念を信じるのでしょうか。 「従業員同士で話し合ってパーパスを決めなさい」と説く人もいますが、それもおかしな話です。経営理念とは「経営者が持っている経営哲学」を伝えるためのものです。 経営者が持つ経営哲学を現場に浸透させるために、従業員を巻き込んで経営理念について学ぶのであれば納得できます。しかし、そもそも経営者が哲学を持たないにもかかわらず、現場から出てきた経営理念を全社で掲げても、それは単なる言葉遊びでしかありません。 ──企業理念について学ぼうとするとき、注目すべき経営者はいますか。 伊丹 本書では本田宗一郎や稲盛和夫、松下幸之助の例を紹介していますが、最近はドン・キホーテ創業者の安田隆夫氏に注目しています。安田氏は企業理念集「源流」を執筆し、次期経営陣に「これに従って経営をしてほしい」と伝えて、66歳で現役を引退しました。その後、ドン・キホーテを運営するパン・パシフィック・インターナショナルホールディングスは毎年増収・増益を続け、今や日本の小売り業界で第4位の巨大企業となっています。 ドン・キホーテが成長を遂げた秘訣(ひけつ)は、同社に確固たる戦略が存在しており、現場に大胆な権限移譲をした上で、現場の各従業員は「羅針盤としての経営理念」に沿って判断できる文化をつくったからだと思います。現場に十分な権限委譲をせずにパーパス経営を唱えても、同社のような目覚ましい成長は期待できません。 ここで注目すべきは、安田氏が異常なほどに徹底した権限移譲を行っている点です。言い換えれば、全く他に比類を見ないほどの徹底さなのです。例えば、メイトと呼ばれるアルバイトのスタッフが商品の仕入れや陳列、棚割りを行い、ポップの作成といった販促までを実際に行っているというから驚きです。 多くの日本企業の実態は、権限委譲を口では強調しながら、「責任は委譲するが、実は権限を委譲していない」のではないでしょうか。その点、ドン・キホーテは安田氏が源流の第三条に書き記した「現場に大胆な権限委譲をはかり、常に適材適所を見直す」を徹底的に実践しており、同氏の強い覚悟が感じられます。 経営理念を作ることは、経営者が自分自身に「お前に哲学はあるのか」と厳しく問うことを意味します。経営理念は経営哲学を社内に浸透させるための手段ですから、当然これくらいの覚悟が必要になるのです。 ──経営全体の中で、経営理念をどのように位置付けるべきでしょうか。 伊丹 私は、経営者の重要や役割として「仕事の枠づくり」があると考えています。経営とは「他人を通して事をなすこと」を意味します。そのためには、組織の人々が仕事をしていく際の「大枠」を作ることが不可欠だからです。 大枠には「事業の枠(戦略)」「仕事の仕組みの枠(経営システム)」「仕事のプロセスの枠(場)」「人の枠(人事)」「思考の枠(経営理念)」の5つがあり、先頭に述べた「事業の枠」から優先的に検討する必要があります。 ──事業の枠に続き、経営システムや人事の検討には経営者がどこまで関与すべきでしょうか。 伊丹 前提として、組織を動かすためには経営者から従業員に向かって「情報」と「影響」が流れるようにする必要があります。そのために「どのような仕組みが最適なのか」「誰に、どんな仕事をしてもらうのか」「その評価は何を基準にするのか」を決めることは経営の根幹といえます。だからこそ、経営者が強い意志と覚悟を持ち、その根幹を作る必要があります。 一方で、経営システムや人事、経営理念の根幹を「外部のコンサルティング会社に考えてもらう」といった意思決定をしてはいけません。経営の根幹は経営者が十分コミットメントして作ることが不可欠です。そして、経営者が経営の根幹を作った後には、現場に細部を任せることが大切です。 前述したドン・キホーテも、経営システムや人事の基本的な枠組みは経営者がコミットしています。優れた企業は「仕事の枠づくり」をしっかりと行い、その上で経営理念を現場に浸透させているのです。