河合優実主演『ナミビアの砂漠』の強烈なオリジナリティ 山中瑶子監督による“決意の一石”
映画界全体をも否定しかねない山中瑶子監督自身の偽らざる心の叫び
山中監督はインタビューで、デビュー作を撮った時期は、ひどいことを言われたり嫌なことがあったとしても、「映画の糧にしよう」と思っていたのだと語っている。しかし、新型コロナのパンデミックを経て、無理に映画を撮らなくてよいという状況が生まれたときに、「生活をないがしろにしてでも映画のことを考えるのが、映画監督として真っ当である」という思い込みから抜け出せたのだという。また近年の映画業界における労働環境の問題、性加害の問題などが表面化したことについては、「え、なんか映画しょうもな」……と感じたと述べてもいるのだ。(※) この山中監督の発言は、本作『ナミビアの砂漠』のテーマを理解するのに、これ以上ない補助線になるはずだ。つまり監督は、これまで「映画」という表現や、映画監督や脚本家などのクリエイターに、憧れとともに感じていた、ある種の神聖な“何か”のイメージを、無惨にも打ち壊されたということなのだろう。そこで生まれた失望と諦念こそが、本作の主人公を取り巻く世界をかたちづくり、強烈なオリジナリティを持つに至ったのである。 カナが劇中、スマホで何度か見ている、「砂漠地帯の動物たちの水飲み場のライブカメラ映像」は、さまざまな解釈が成り立つ、象徴的な要素だ。これを山中監督は、自分が全然知らないような場所だからこそ安らぎを見出せるのだと説明している。 カナも劇中で何度かペットボトルの水を手にしているように、そして、これからの日本で生きる者の目標は「生存」だとも言っていたように、水場で生きるために水を飲んでいる自然界の生物たちににとっても、水分を摂って命を存続させることは、最も単純な生存本能の行動だといえる。そんな営みに安らぎを感じてしまうカナもまた、過酷な環境のなかで必死に生きようとした結果として、当然の抵抗を見せたのだと考えられるだろう。 だがこの風景は、映画業界にとっては、戦慄すべき意味を持っているのかもしれない。山中監督でなくとも、近年のさまざまな出来事や報道によって、日本映画界やハリウッドのイメージが破壊されたと感じる映画ファンは少なくないはずだ。誰かを犠牲にしたり苦しめてまで、そしてそんな状況を無視してまで、映画なんて撮らなくてもいいのではないか。世の中を悪くするものを作るのなら、そんなことはやめて具体的な人助けでもした方が良いのではないか。そういう立場に立ってみれば、これまで高いレベルの表現を達成しようとしたり、人間の真実に迫り感動を提供するという美名のもとで、数々の犠牲や悲劇を生み出してきた映画業界とは、確かにいったい何だったのかということになってくる。 本作が圧倒的に力強いのは、そんな映画界全体をも否定しかねない監督自身の偽らざる心の叫びが、高校生時代から山中監督へアプローチしていたという河合優実の身体表現によって、さらに増幅され響いているからだろう。そしてそれが、表面ばかりが近代化されつつも、実際には古くからの多くの問題が継続されている日本という土壌であるからこそ、さらなる力を持つことになるのだ。近年の日本の映画作品には、社会的なテーマに欠けるものが少なくないというイメージがあるが、いったん、本作のように容赦無く描く覚悟さえ持てば、社会の理不尽さを描く上で世界屈指の舞台になり得ることが証明されたかたちだ。 そのように考えるならば、“何もない”ナミビアの砂漠の風景は、本来は何よりも大事だったはずの、人を大事にするという前提を守るという意味において、何も積み上げることのできなかった、われわれの住む環境であり、旧弊な映画界の姿そのものだとも思えてもくる。だが、もしそうだとするのなら、この何もない荒野に身を投じ、もう一度いちから積み上げていけば良いだけなのではないか。ちょうど世界は、きれいに過去を拭い去り、仕切り直されねばならない局面にあるのかもしれない。 本作『ナミビアの砂漠』のラストでは、たとえ不器用ではあっても、人が人を理解しようとする一歩を踏み出すことで、何かが生み出されるのではないか……そういう予感が、一抹の希望として提出され、物語を締めくくっている。そしてこれは、ある意味で陳腐化し形骸化していることがあらわになってしまった、映画業界や日本社会で、もう一度土台を作り上げようとする、“決意の一石”だったのだと理解することができるのだ。 参照 ※ https://www.bunkamura.co.jp/topics/cinema/8957.html
小野寺系(k.onodera)