<21世紀枠チカラわく>「理念は重要」「選考の華」識者語る意義 選抜高校野球 /10
「強さ」という物差しではない多様な価値に光を当てようと2001年の第73回センバツ大会から始まった21世紀枠。過疎地域の厳しい環境を克服して出場した学校もあれば、野球と勉学を両立させて出場した学校もある。創設から20年がたち、どう評価し、今後どのような方向へ進むべきか。立場の異なる3人に聞いた。 ◇スポーツ文化評論家の玉木正之さん 今の高校野球の有りようを評価していない。高校野球は単なる部活動なのに騒ぎすぎ。高校野球は好きでさまざまな高校を取材したが、暴力を振るう監督も山ほど見てきた。その人たちが名監督と言われる高校野球界にうんざりしている。2回も全国大会があるのも反対だが、21世紀枠という仕組みに少しは高校生の部活らしい面が出ている。新型コロナウイルスの感染予防も昨年夏の(1校1試合のみの)交流試合は良かった。高校生が甲子園で野球をする喜びはやっぱりあるんだなとつくづく感じながら、優勝校を決めなかったのは評価していい。勝利至上主義が消えた。勝つことはプロ野球に任せておけばいい。 しかし、交流試合を機に高校生の野球がどういうものであるべきか、という議論にならなかったのは残念だ。高校野球も新型コロナ前に戻ればいいというのではない。この機会にもっといい大会にするにはどうすべきか考えるべきだ。 新聞社、報道機関が主催することはやめた方がいい。自分たちの事業になるから。ジャーナリズムが働かなかったら、そこに発展というものはない。アメリカのある人が言っているが、政府がなくてジャーナリズムのある国の方が良い、ジャーナリズムがあればやがていい政府が生まれるが、政府があってジャーナリズムがない国は全体主義の国になる。高校野球連盟がそれに当たる。そこまで考えないと駄目だ。 その中で、今後の高校野球は、21世紀枠の理念の方向へ向いていくべきで、21世紀枠のあり方を展開する方法をもっと考えた方がいい。21世紀枠といったら何かとはっきり言うと、21世紀枠から優勝する学校はほとんど出ない。そしたら優勝する学校を決める野球のやり方が高校野球にふさわしいかという問題につながる。 高野連の会長とも話したことがあるが、かなり物分かりのいい人もいるが、このようなことを私が言うと苦笑いで終わる。高野連は、新型コロナが終息して早く春、夏の大会を復活させたい、そして既存のやり方をやらないといけないと思っている。高野連は討論してきたのか。新型コロナ前に戻そうとすることは反対で、より良い大会にするための努力として、みんなで話し合いをするべきだ。 ◇明徳義塾(高知)監督の馬淵史郎さん もう20年になるのか。21世紀枠は招待大会である「センバツ」の一番の特色だ。選考の「華」ともなっている。特に公立高校の選手や関係者にとっては大きな励みになっていることは間違いない。私が公立高校の監督なら、現状の3枠(今年は特例で4枠)を維持してほしいし、できるなら増やしてほしいと思うかもしれない。 しかし、明徳義塾の監督という立場で言うと、3校は多い気がする。例えば、四国・中国は(一般選考枠が)二つずつあって、残り1枠は両地区で争う。関東・東京も同じ仕組み。東海の(一般選考枠)2も少ない気がする。そこを削ってまで21世紀枠というのはどうかと思う。21世紀枠で出場するチームに勝ったチームが選ばれない状況は、問題がなきにしもあらずでは。「センバツ」が招待大会だからと言われればそこまでだが。 私は一度も21世紀枠出場校と対戦したことがないが、対戦した高校の監督に聞くと、「やりにくい」という。大応援団が来る上、他の観客の応援もあるので。(21世紀枠校のチーム力については)選手たちは一生懸命やっている。最近は秋の地区大会まで出たチームが選ばれており、一概には言えない。(2015年・第87回大会の)松山東(愛媛)はバッテリーが素晴らしかった。案の定、(初戦の東京・二松学舎大付に)勝った。投手力のいいチームは侮れない。 (21世紀枠の今後について)立場によって、それぞれ意見はあるだろう。明徳の監督という立場で言えば、昔のようなやり方で32校を選んでもらいたい。ただ、「センバツ」の特色として残すなら、例えば、東西に分けず、タイムリーなチームを選べばいい。枠を二つにして、開幕試合でその両校が対戦する形にすることも考えればいい。センバツの特色というなら、秋の大会から指名打者(DH)制を導入して、センバツもDHを採用すればいい。投手の負担軽減にもなり、打力は今ひとつだが守備が素晴らしい選手とか、その逆の選手など出場機会が増えるだろう。「夏」との差別化は、もっといろいろな考え方ややり方がある。 ◇日本女子体育大准教授ヨーコ・ゼッターランドさん 21世紀枠の選考委員になり、選ぶ方は大変。プロセスを資料で拝見するが、全部の高校に取材に行っていたらより背景が見えるので選考の際にまた違うのかなと思う。私は百聞は一見にしかずで、そういうところを信じる。資料や説明をもとに思いをはせるとみんな出させてあげたいとなる。春は、必ずしも強いチームが甲子園の舞台に立てるわけではなく、酷な反面、チャンスが与えられる人もいる。学生だからあっていいのかなとポジティブなチャンスと捉えるようになったのが私のスタート。 秋の成績だけでなく、チームの特徴として、地域への貢献のほか、環境の大変さの克服があり、選考の入り口で日本のスポーツ事情の大変さを目の当たりにする。与えられた環境の中で設定した目標へ人間の知恵を働かせ、最善の方法を探す。先の人生でも生きるし、日本の良さでもある。 チームの強い・弱いの差が顕著に出ることもあるが、常勝チームが勝ち負けを通り越して21世紀枠で出場したチームに何を見るか。自分たちには無いものを持っているという素晴らしいものを見ることができるか。指導者は生徒にそういうことを伝えられるか。そこに勝ち負けを通り越した価値がある。 勝負の世界なので勝ち負けにこだわることは大事で時には残酷なものだが、実社会でも必ずある。野球を離れたら逆の立場になる、弱者になる可能性は誰にもある。相手を思いやる、どういうプロセスをたどって甲子園にたどり着いたのか、思いをはせ、想像力を働かせることが大事だと思う。 20年前に新しい世紀になり、勝ち負けではなく多様性を考えてというのは大分早く、先見の明があった。日本の社会が20年前に21世紀枠を素晴らしいアイデアだねと言っても本質をどこまで理解していたか。20年たった今だからこそ必要な重要な枠だと位置づけられる。 勝ち負けにこだわることは大事だが、プロになれる、オリンピック選手になれる、その中で世界のトップになれる確率はどんどん低くなる狭き門。だからといって夢を見るのをやめろとか諦めろではない。そこを目指しているから他のことをやらなくていいわけではない。いつかはトップアスリートの座を降りないといけないわけで、残った人生の方がはるかに長い。勝ち負けよりも、スポーツを通して人としてやるべきことの方がはるかに重みがある。アメリカのバレーボールのナショナルチーム入りしてチームメートに言われた印象的な言葉がある。アスリートとして取り組む時期について「It's a part of life」。そうか人生の一部なんだよな。その気付きが大切だ。