『十一人の賊軍』は東映の「集団抗争時代劇」と笠原和夫の“魂”を現代に蘇らせたのか?
笠原和夫の本来のパンク精神に反するといえる『十一人の賊軍』の“現代性”
そういう角度から見ると、「集団抗争時代劇」たる本作もまた、弱い立場に立たされた人々を同情的に描き、感情移入させるという意味において典型的な大衆娯楽的な枠組みのなかにあるといえよう。しかし2024年現在において、この試みは決して「典型的」なものではない。近年の傾向では、創作物が、むしろ権力の側への感情移入を促したり、日本がファシズムに陥った過去を部分的に美化するような描写をともなった作品がヒットすることで、“一般大衆の溜飲を下げる娯楽”という枠組みが成立しなくなってきているところがあるからだ。 本作に何か新鮮な雰囲気を感じるというのは、『仁義なき戦い』シリーズで笠原和夫がヤクザ社会における権力構造と日本社会を重ね合わせていたように、官軍にしろ幕府にしろ、それぞれの大きな力のなかで利用される弱い立場の者たちの側に立つという構図が再現されているからだろう。この描き方が、現在の娯楽に慣れた目から見ると新しいものに感じるのである。そしてむしろ、経済格差が広がり貧困層がまた増えているいまだからこそ、このような枠組みが必要とされているはずだと思えるのである。 とはいえ白石監督によると、やや希望を感じさせる本作のラストに比べ、笠原和夫のプロットは、より犠牲者の多い凄惨なものだったのだという。(※)改変はそれだけでなく、劇中における城代家老・溝口内匠の醜悪な行動を、本作では民衆を救うための「必要悪」である部分があるとして、幾分同情的に描くことで、バランスをとろうとしているところもある。これらの改変は、まさに“現代的”だといえよう。 しかし、この“現代性”こそが、笠原和夫の本来のパンク精神、例えば『仁義なき戦い』(1973年)の鮮烈なラストシーンに込められたカタルシスに反するものだといえるではないか。この種の作品では、権力者の醜さと、それに翻弄される弱者の対比、弱い者によるせめてもの“蜂の一刺し”を描かなければならないはずだ。そこに、権力側への同情、理解が挟まれてしまうことで、メインテーマの力が弱まってしまっているのである。そして、この気の回し方というのが、紛れもなく現代へのカウンターであったはずの本作自体をも絡めとろうとする“現代性”というものなのではないか。 確かに、本作の城代家老には城下町の人々を救うためという大義名分がある。とはいえ彼は、忠誠を誓う武士を欺いて捨て石とするだけではなく、無辜の百姓たちの首を次々に斬り落とす残虐な行為をおこなっている。城下の町民を助けるために百姓を殺害するという判断は、「必要悪」としても成り立っているとは思いづらい。この描き方をした上で城代家老に同情的な視点を用意する本作の試みには、さすがに無理があったのではないかと思えるのだ。 同時に、罪人のなかに含まれる「女犯」の僧(千原せいじ)は、当時の罪の軽重はともかくとして、性的な加害を繰り返したという罪の性質ゆえに、劇中で他の罪人と同列に扱われている点には、逆に“現代的”な観点から疑問をおぼえるところだ。このように、本作は弱者の側に立つという意味において奮闘する作品であるからこそ、徹底性を欠く部分が目立っているともいえる。 過去のスピリットを蘇らせる本作『十一人の賊軍』は、紛れもなく現代において貴重な作品である。その一方で、そこに込められたテーマを微妙に鈍麻させる点があり、その理由が他ならぬ“現代性”ゆえなのだとするならば、「現代」とは、いったいどんな時代なのかということを、本作を楽しみながらも自問してしまうのである。 参照 ※ https://youtu.be/H0b3YNedDWM?si=KuTA_zKl9wHxDeCj
小野寺系(k.onodera)