江戸のメディア王・蔦屋重三郎の成功までの下積み時代はどう生きたのか⁉
■江戸の華・吉原に誕生! 蔦屋重三郎の成功までの下積み時代 江戸幕府中興の祖・8代将軍徳川吉宗の晩年にあたる寛延3年(1750)正月7日に、蔦屋重三郎は江戸の華・吉原で生まれた。父の丸山重助は尾張の出身で、母の廣瀬津与は江戸生まれであった。 重三郎の家庭環境は謎めいている。父が吉原で何の仕事をしていたのか、あるいは兄弟姉妹がいたのかも分からない。分かっているのは、7歳の時に両親が離別したため、吉原で茶屋を営む蔦屋に養子入りしたことである。ここに蔦屋重三郎が誕生した。 養子入りの経緯も分からないが、吉原で生まれ育ったことが重三郎の人生に大きな意味を持ったことは、後の活躍をみれば一目瞭然だった。 吉原は江戸で遊女商売を唯一公認された遊郭の町だが、吉原といっても遊女屋だけで成り立った町ではない。主役は遊女だが、飲食業を中心に商人たちも大勢住んでいた。もちろん、その多くは遊女屋との関係で成り立っており、重三郎が養子に入った茶屋の蔦屋も遊客を遊女屋に手引きする引手茶屋であったという。 そんな吉原で生まれ育った重三郎は、安永3年(1774)、25歳の時に鱗形屋孫兵衛版『吉原細見』の改め役を委託される。毎年春と秋に出版された吉原細見は遊女屋、遊女の源氏名・位付け・揚代など、吉原で遊びたい者が知りたい情報が盛りだくさんのガイドブックとして、江戸の隠れたベストセラーとなっていた。重三郎はその内容にお墨付きを与える監修の役割を任せられたのであり、版元から吉原の事情通として認められていたことがわかる。 吉原は生まれ育った地元であるから、遊女屋の事情に詳しいのは当然と言えなくもないが、それだけが理由ではない。出版活動を開始する前の重三郎が貸本屋を営んでいたことが実に大きかった。 当時、本は高価なものであり、購買層は経済力ある者に限られていた。そのため、見料という名のレンタル料を支払って貸本屋から本を借りて読むのが一般的だったが、借り手が貸本屋のもとに出かけて借りたのではなかった。貸本屋が行商人のように得意先に出入りして、本のレンタルに応じたのである。江戸庶民の読書環境を支えたと言っても過言ではなかった。重三郎の場合は、吉原が商圏ということになる。 重三郎は貸本屋として得意先を回りながら本を貸し出したが、遊女屋や茶屋などに足しげく出入りすることで、各店の事情に自然と詳しくなった。貸本業を展開することで吉原の事情通となると同時に、吉原にコネクションを張り巡らせる。それは出版業に参入した際の販路の確保にも繋がっただろう。 重三郎が貸本業を通じて得たのは吉原の情報や人脈だけではない。企画力も養えたことは見逃せない。貸本屋は得意先に足しげく通うことで、おのづから読者の好みを知ることができた。それは出版に際してのマーケティングに直結したのであり、企画にも活かせたことは想像に難くない。 家業は飲食業(茶屋)でありながら、異業種の出版事業に参入し、ついには江戸のメディア王となったバックボーンには、自らが生まれ育った吉原を商圏として貸本業を展開した助走期間があった。 監修・文/安藤優一郎 『歴史人』2025年2月号『蔦屋重三郎の真実』より
歴史人編集部