マイルスさえもこき使った、若きジャズ・レーベル社長の悪評とは?
2017年はジャズレコード誕生から100周年目でした。1950年代に大小さまざななジャズ・レーベルが誕生し、その中でも名門だと言われていたのが、「プレスティッジ」でした。マイルス・デイビスやセロニアス・モンク、モダン・ジャズ・カルテットなど魅力的なアーティストのアルバムをリリースし、かなりの売り上げを誇っていました。しかし、アーティストの間での評判はあまりよくありませんでした。なぜでしょう? ジャズ評論家の青木和富さんが解説します。
モダン・ジャズの名門レーベル「プレスティッジ」を創設したボブ・ワインストックとは?
学生が起業するということは、今では珍しい話ではないが、それがレコード会社、しかもジャズが専門となると、これはやはり奇妙な若者と言うしかない。モダン・ジャズの名門レーベル、プレスティッジを創設したボブ・ワインストックは、まさにそんな若い起業家だった。プレスティッジの最初の録音は、1949年1月のリー・コニッツのセッションで、ワインストックが生まれたのは、1928年11月だから、20歳のときとなる。ちなみにコニッツは1927年生まれだから、1歳年上の21歳だった。 ジャズ・レーベルを起こそうというのだから、当然ジャズ・ファンだった。ルイ・アームストロングが好きだったようだ。子供の頃からレコードを集め、そして、それを売ることもやっていた。むしろ、それがワインストックの商売の発端と言っていい。当時はこうしたことは当たり前に行われていて、専門の雑誌もファンの間に存在した。そんな若者が、自分でレコードを作ろうとしたのが、今回の話だが、実はもう一つのモダン・ジャズの名門レーベル、リバーサイドも同じような経過をたどって起業している。ワインストックがレコードの売買で世話になったのが雑誌『レコード・チェンジャー』だが、そのオーナーがビル・グラウアーで、編集はグラウアーのコロンビア大学時代からの仲間オリン・キープニューズだった。そして、この二人は、1953年にリバーサイド・レーベルを発足させるのである。 リバーサイドのプロデューサーとして活躍したキープニューズは、コロムビア大学で英文学を専攻し、太平洋戦争の終末期の日本空爆に参加したような人なので、ワインストックとは年齢的にも、人生の経験の深さでも違いがあるのは当然だが、ただ、ワインストックは、ふたつの点で優位だったのは間違いない。ひとつは、何よりもその若さ、そして起業したのが、リバーサイドより4年早かったという時代的な幸運である。 ワインストックの父は靴に関わった仕事をしていたが、叔父は化学会社を経営し、この叔父がワインストックの起業を大いに励ましたという。いつの時代も若者を励まし、支えるのが周囲の先輩たちだが、叔父だけではない、ジャズ関係者も、この若者の起業を励ました。ブルーノート・レーベルのアルフレッド・ライオンは、録音エンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダーをこの若者に紹介した。ドラムのケニー・クラークは、セロニアス・モンクを紹介し、そして、クラークは、発足当時のモダン・ジャズ・カルテットの一員だったので、この名門グループの初期のアルバムもプレスティッジに残されている。 時代的な幸運というと、プレスティッジ発足当時の1950年代初頭は、以前にも触れたように、ビ・バップのブームが終わり、ジャズ界は不況時代に突入した。世界史的にも冷戦時代が本格化し、朝鮮戦争、マッカーシズムが吹き荒れ、いい時代とは言えない。ミュージシャンは仕事を失ない、コニッツ、スタン・ゲッツなどは、活動拠点を西海岸に移すことになる。不況といえども映画産業は健在で、ビッグ・バンド活動も盛んだったのである。そんなとき、この若者からレコード制作の話を聞かされ、ときめかないミュージシャンはいないだろう。