被爆石は静かに語る…広島で被爆した女性から息子へ 石のミュージアムが伝える「平和のメッセージ」
終戦直前、広島と長崎に投下された原子爆弾。今年10月に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)へのノーベル平和賞の授与が発表されましたが、2県から遠く離れた岐阜県中津川市の施設では、広島と長崎の爆心地近くにあった石材を”原爆にあった石=被爆石”として展示しています。 墓石などに使われる御影石の採掘地として知られる岐阜県中津川市蛭川。この場所に世界中の貴重な鉱石などを集めた「博石館」(1986年開館・ストーンパーク株式会社)という民間の施設があり、年間15万人が訪れます。広島と長崎の被爆石はこの施設で展示されています。
被爆石が中津川市にやってきた経緯
広島の被爆石は当時の広島市役所の石材の一部(長さ72センチ×横87センチ)で、長崎の被爆石は爆心地近くの川の護岸の石です。どちらも原爆の熱線によって黒っぽく変色しています。なぜ、2つの被爆石が中津川市の施設で展示されることになったのでしょうか?博石館の開館に携わった水野勝三専務(74)に話を伺ったところ、開館を主導し館長を務めた岩本哲臣さん(2018年死去)とその母親・由紀枝さんが大きく関わっていました。 終戦間近の1945年8月、当時学生だった由紀枝さんは広島で被爆しました。戦後、自身の被爆体験を息子の哲臣さんにどのように話していたかは定かではありませんが、水野さんは「由紀枝さんはしっかり哲臣さんにそのときの体験を伝えていて、哲臣さんはその思いを引き継いだはずだ」と推測します。 哲臣さんは博石館開館直前の1985年、広島市役所の旧市庁舎が解体される際、広島市に「博石館に寄贈していただけないか」と願い出ました。母親から受け継いだ平和を思う気持ちがそうさせたようです。由紀枝さんが被爆者であったこともあって、解体で出た石材を譲り受けることができました。
続く1992年には長崎の護岸の石を長崎国際文化会館(現・長崎原爆資料館)から譲り受けたことで広島・長崎、2つの被爆地の石が岐阜県中津川市にそろいました。博石館の被爆石の前には来場者が平和への思いから時折、硬貨を置いていきます。博石館ではこうした硬貨を「浄財」として毎年、両市に届けています。