自分を「ゴルゴ13」と重ね合わせた? 国松警察庁長官狙撃事件“自白”の男が死亡、かつて月刊誌に寄せた衝撃の手記
否定も肯定もしない“曖昧な”立場
「私は狙撃事件への関与についてシロだと主張するつもりはありませんので、争点はクロかシロかではなく、立件できるか否かということになります」 【写真を見る】瀕死の重傷・国松長官のその後は…11年後に見せた温和な笑顔 5月22日に東日本成人矯正医療センターで死亡した中村泰(ひろし)受刑者(94)は、かつてこのような手紙や2本の手記を「新潮45」に送っていた。中村受刑者が「無期懲役の受刑者」となった理由は、大阪市や名古屋市で発生した現金輸送車襲撃事件(強盗殺人未遂罪)である。だが、1995年3月30日に警察庁長官・国松孝次氏(当時)が狙撃された「国松事件」についても関与を“自白”していた。 ***
「国松事件」の発生は「地下鉄サリン事件」のわずか10日後、オウム真理教への捜査が大詰めを迎えていた時期だった。警視庁公安部が主導した捜査では教団の関与が濃厚とみられ、04年7月にはオウム元信者4人が逮捕されたものの、全員が嫌疑不十分で不起訴処分に。やがて2010年3月30日に殺人未遂罪の公訴時効を迎え、未解決事件となった。 中村受刑者が教団と無関係の容疑者として浮上したのは03年、02年11月に名古屋で起こした銀行襲撃事件後のことだ。産経新聞は03年10月、95年7月30日夜に東京都八王子市で女性3人が射殺されたスーパー「ナンペイ」の事件と、大阪の銀行襲撃で使用された拳銃が同一であるとスクープを飛ばした。続いて「週刊新潮」が同月発売の40号で、中村受刑者が「国松事件」の容疑者として捜査線上に急浮上していることを報じた。 「新潮45」が1本目の手記を掲載したのは04年の4月号。「国松事件」について「否定も肯定もしない」という中村受刑者の“曖昧な”立場は、冒頭に挙げた手紙の一文からもわかるだろう。では、どのように事件を語っていたのか。1本目の手記は、書き手の中村受刑者が第三者として事件を見た「ノンフィクション・ノヴェル」(原文ママ)という趣向である。本人の意向により、掲載当時の編集者はいっさい手を加えていない。 公訴時効が成立した後の10年10月、東京都内の弁護士が殺人未遂容疑で告発状を提出したが、「自白の信用性に疑義がある」として嫌疑不十分で不起訴となった。04年の掲載当時、警視庁の捜査員が「捜査上、無視できない内容」と語った1本目の手記をお届けする。 (「新潮45」2004年4月号「独占手記 国松長官狙撃犯と私」再録:全3回の第1回)