「70年前のプロ野球」を生観戦した松岡功祐の記憶。そして対戦したV9巨人、ONの衝撃。
【連載⑤・松岡功祐80歳の野球バカ一代記】 九州学院から明治大学へ入学。そしてかの有名な島岡吉郎監督の薫陶を受け、社会人野球を経てプロ野球の世界へ飛び込んだ。11年間プレーした後はスコアラー、コーチ、スカウトなどを歴任、現在は佼成学園野球部コーチとしてノックバットを握るのが松岡功祐、この連載の主役である。 つねに第一線に立ち続け、"現役"として60年余にわたり日本野球を支え続けてきた「ミスター・ジャパニーズ・ベースボール」が、日本野球の表から裏まで語り、勝利や栄冠の陰に隠れた真実を掘り下げていく本連載。今回は70年前、松岡少年が生で観戦した伝説の名プレイヤーたちの記憶と、V9巨人、そして「ON」の思い出を語る。 ■「牛若丸」「野武士軍団」を生で目撃 1943年生まれ、80歳の松岡功祐は、70年も前のプロ野球の風景を今も忘れることができない。"牛若丸"の異名をとった吉田義男(1933年生まれ。元阪神タイガース)、"怪童"中西太(1933年生まれ。元西鉄ライオンズ)などレジェンドの姿を間近で見ている。 松岡はこう振り返る。 「熊本にある水前寺球場でプロ野球のオープン戦を見ました。ショートを守る吉田さんがいつボールを捕って投げたのかわからないくらいに動きが速かった。とにかく、身のこなしがほかの選手とは違っていましたね」 吉田以外にも守備の名手がたくさんいた。 「10メートルくらいの距離からボールを投げて、バッターが打ち返すトスバッティングを見て、また驚きました。吉田さんみたいに名を知られた選手でなくても、グラブさばきが見事で、まるで曲芸でした。守備側にふたりいて、バッターに投げるふりして隣の選手にトスしたり、バッグハンドで捕ったりグラブトスをしたり、変幻自在で。プロは難しいことを簡単にやってみせるんだなという驚きがありました」 プロ野球選手は体が大きい。投げるボールも打球も見たことがないほどのスピードだったが、松岡が目を奪われたのはその柔らかさだった。 「よくサッカー選手がボールのリフティングをしたり、フェイントを入れながら少人数でボールの奪い合いをしたりしますが、そんな感じでしたね。プロ野球選手というのはすごいなと感心したものです」 同じ熊本出身の"打撃の神様"川上哲治(1920年生まれ。元読売ジャイアンツ)の現役時代は見ていないが、福岡に本拠地を置く西鉄(現埼玉西武)の試合を見るために平和台球場に行ったこともある。 「1956年、西鉄は日本シリーズで巨人に勝って、初めて日本一になりました。中西太さん、豊田泰光さんなど豪快な野武士軍団も見ています。中西さんの体がゴムまりみたいに弾んでいたことを覚えています」 "ミスタープロ野球"長嶋茂雄は松岡の7歳上(1936年生まれ)だ。 「僕がプロ野球に入った1967年、長嶋さんは絶対的なスターでした。大洋ホエールズの本拠地だった川崎球場で試合前の守備練習をしている時に、スタンドから歓声が起きた。その時、三塁側ベンチのほうを見たら長嶋さんがいて、そのカッコよさにクラクラしました。右手にグラブ、左手に帽子を持った長嶋さんの立ち姿に、練習中にもかかわらず、僕は思わず見とれてしまいました」 同じプロ野球選手が動きを止めるほどのオーラがあった。もちろん、それまでテレビ画面を通して見た長嶋と実物とではまったく違う迫力があった。 巨人の看板を背負っていたのは長嶋と王貞治(1940年生まれ)だった。 「とにかく印象に残っているのは長嶋さんのカッコよさ。豪快に空振りしてヘルメットが飛んで尻もちをつく。そんな失敗する姿に見とれるなんて、ほかの選手ではありませんよ。試合前のバッティング練習がまたすごくて、10球のうち8球はライナーでスタンドに入る。敵ながら、ほれぼれしながら見ていました」 ■ライバルがお互いを高め合った