「70年前のプロ野球」を生観戦した松岡功祐の記憶。そして対戦したV9巨人、ONの衝撃。
1965年から1974年までリーグ9連覇、9年連続日本一を続けたチームは盤石の強さを誇っていた。 「巨人が3連覇を目指すシーズンでした。1年間で26試合対戦するのですが、大洋が勝ったのは6つか7つか(正確には9勝17敗)。あの頃の巨人は本当に強かった。1980年代、1990年代はじめの西武(1982年から1994年までに11度のリーグ優勝)や今のオリックス・バファローズ(2021~2023)のように強いチームはありますが、まったく比較になりません」 長嶋と王貞治が並ぶクリーンナップ、安定した投手力、鉄壁の守備。スターであっても献身的なプレーをするチームにスキはなかった。 「ドラフト会議が始まる前の自由競争時代に、アマチュアのスターが次々に入団していましたし、他球団のベテラン選手をトレードで補強して長い期間強さを維持しました。 一番に足の速い柴田勲がいて、二番が小技のうまい土井正三。川上さんの緻密な野球を支える素晴らしい選手たちが揃っていました。みんな選球眼がよくて、チームの決め事をきっちり守る。2、3点リードしていても、終盤になると逆転されるんじゃないかと思っていました。守っていて、本当に嫌なチームでした」 長嶋はプロ17年間で通算2471安打、444本塁打、1522打点をマーク。王はプロ21年間で通算2786安打、868本塁打、2170打点を挙げた。それぞれの数字は目を見張るものがあるが、実際に日本中に与えたインパクトはそれ以上のものがあった。 「王さんにバットをいただいたこともあります。物腰が柔らかくて、接し方がものすごく丁寧な方でした。でも、勝負に対する執念はすごい。本当に負けず嫌いだったと聞きました。同じチームにライバルがいたことが、おふたりにとって大きかったんじゃないでしょうか」 セ・リーグとパ・リーグに人気面でも待遇面でも格差があった時代、毎試合のようにテレビ中継される巨人の三番、四番がプロ野球の真のスターだった。 「長嶋さんも王さんも、シーズン前のオープン戦でも休みませんでした。地方のファンはふたりを見るために球場に行きましたから。お客さんへの思いが強かったんでしょうね」 第6回へつづく。次回配信は2024年2月24日(土)を予定しています。 ■松岡功祐(まつおかこうすけ)1943年、熊本県生まれ。三冠王・村上宗隆の母校である九州学院高から明治大、社会人野球のサッポロビールを経て、1966年ドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受けプロ野球入り。11年間プレーしたのち、1977年に現役引退(通算800試合出場、358安打、通算打率.229)。その後、大洋のスコアラー、コーチをつとめたあと、1990年にスカウト転身。2007年に横浜退団後は、中国の天津ライオンズ、明治大学、中日ドラゴンズでコーチを続け、明大時代の4年間で20人の選手をプロ野球に送り出した(ドラフト1位が5人)。中日時代には選手寮・昇竜館の館長もつとめた。独立リーグの熊本サラマンダーズ総合コーチを経て、80歳になった今も佼成学園野球部コーチとしてノックバットを振っている。 取材・文/元永知宏