中島みゆき(下)歌手の個性新たに引き出す歌を提供 作品には必ず恩人〝DAD川上源一〟のクレジット、うかがわれる義理堅い人柄
【昭和歌謡の職人たち 伝説のヒットメーカー列伝】 中島みゆきが〝言葉の師〟として尊敬する詩人、谷川俊太郎さんが11月13日に死去したことを受け、中島は「女性セブン」の取材に独占告白していた。 【写真】眼鏡姿で軽快にステップを踏み、10着近い衣装替えで魅了した中島。チャーミングなステージは不変だ そこでは「なにかにつけて、なんていうんでしょうかね…。星みたいな、憧れの星みたいな存在でした」と語っている。大学の卒論のテーマにもしているほどだ。 中島は多くの歌手に作品提供している。私もいつか一緒に仕事をと思っていたが、ようやく実現したのは1997年、石嶺聡子の9枚目のシングル「You don't know」だった。まだ新人歌手なのにすんなり事務所から承諾を得た。 東京都内の事務所で夜遅い打ち合わせだった。石嶺の歌を聴いていただいていたので、何か質問があるかと思いきや、世間話をしながら中島さんは「はい、はい」とうなずいているだけだった。 それでも、期限内に作品は仕上がってきた。«期待なんかしないことと 固く誓ったのに心乱れて»。当時22歳だった石嶺は、そんな等身大の作品に感動していた。 吉田拓郎に提供した曲では「永遠の噓をついてくれ」がある。2006年のつま恋コンサートで、吉田は中島とデュエットしている。2人の歌を聴いていると、涙をさそうくらい息が合っている。まるでジョーン・バエズとボブ・デュランの共演のようだった。 研ナオコへは、1976年の「あばよ」から、78年「かもめはかもめ」などシングル両面で12曲も提供している。 「かもめはかもめ」の詩は男女問わず、ぐさりと胸に来るものがある。研のちょっぴり斜に構えた強い女の歌いっぷりと歌詞がマッチしてリアリティーがあった。 小柳ルミ子の「雨」、郷ひろみの「美貌の都」、柏原芳恵の「春なのに」、薬師丸ひろ子も「おとぎばなし」など、それぞれの個性を新たに引き出しているのは、さすがとしか言いようがない。中島は歌を作るのが大好きな人なのではないかと思ってやまない。 最後に、中島の作品には、商品には必ず〝DAD川上源一〟とクレジットされている。言わずとしれた、ヤマハ音楽振興会の創設者だ。自分の歌の世界を認めてくれた恩人として大切にしているのだろう。義理堅い人柄がうかがわれる。 (敬称略)