男性中心の古典文学、神話の中の女性たちに声を与えて姿を現した真相―ニナ・マグロクリン『覚醒せよ、セイレーン』鴻巣 友季子による書評
◆男性側に都合のいい理屈を語り直す 古代ギリシャ以来、西洋文学には男性中心/優位の時代が何千年と続いた。書くのも男性、書かれるのも多くは男性。叙事詩では、戦争での英雄の武勲が謳われ、王さまが讃えられ、国の繁栄を寿ぐ。その生活を支えていたはずの女性の声や姿はとかく影が薄い。十一世紀の『源氏物語』の英訳を読んだヴァージニア・ウルフは極東の女性による繊細で鋭利な洞察と抒情性に触れ、同時代の英文学との差に唸ったものである。 この強者/男性寄りの視点を弱者/女性寄りの視点に転換する「語り直し文学」のブームが、英米文学圏で続いている。人気の題材はギリシャ・ローマ神話、戦争(特にトロイ戦争)、シェイクスピアといった辺りだ。 『覚醒せよ、セイレーン』の下敷きになった『変身物語』は、古代ローマの詩人でエレゲイア恋愛詩を多く手がけたオウィディウスの数少ない叙事詩の一つだ。神話の登場者たちが次々と動植物や鉱物や神に変わり身するが、『覚醒せよ』では34章の1章ずつに女性たちの声が与えられ、変革のコーラスを奏でる。 本作の大きなテーマは性加害だ。例えば、欲情したアポロンに追われたダプネは木になってしまう。女性の精神の受難と草木への変容/一体化というモチーフは、近現代の英米文学でも繰り返し書かれており、ウルフ、ルイーズ・グリュック、若いアマンダ・ゴーマンの詩にも見られるものだ。 『変身物語』の雅な婉曲表現をひき剥ぐのも本作の特徴の一つである。ヘクサメトロス(古代ギリシャ語叙事詩の代表的な六歩格韻律)の韻文から凝った技巧がはずされるとき、その真相は姿を現すだろう。アラクネは男神らの「性犯罪」を主題に「ファック」の様子などをタペストリーに織ったし、テティスは「暴行」されて母親になったのである。 イオはユピテルに拉致され牛に変えられるが、この悲劇の核心は言語機能の喪失として描かれる。ユピテルが寄ってきてグルーミング(手懐け)しようとすると、イオは拒否の意思をはっきり示すが、男はそうは受けとらない。 イオは思う。「突然、言葉が本来の意味とは違う意味を持つようになる」と。彼女は犯されている最中に乖離症状様のことが起き、「突然その自分が消えて、私は肉体で入口で手段になった」という。 性暴力が起きれば被害者が責を負わされる。あのメドゥーサが化け物に変えられたのも、男神にレイプされ神殿を穢したという理由なのだ。欲情させる女がわるいという思考は男性が作りだした「ファム・ファタル」(宿命の女)という概念に繋がりいまも生き永らえているだろう。男性は女性が放つ抗えない魔性に誘いこまれて罪を犯したむしろ犠牲者なのだ、という都合のいい理屈だ。その欺瞞を、カモメの目で語り直す「セイレーンたち」の章も明確にする。 本書のもう一つの特徴は、女性たちの暮らしを描くことだ。彼女たちは生理になるし、妊娠中にヨガをやり、幼子にオーガニックコットンの肌着を用意する。 こうした日常の重要な小事を、神話という“大きな物語”は抹消していた。そんな小事こそが文学の中核的題材になるのは、“小”説という散文文芸が発達してからなのだろう。 [書き手] 鴻巣 友季子 翻訳家。訳書にエミリー・ブロンテ『嵐が丘』、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ1-5巻』(以上新潮文庫)、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(河出書房新社 世界文学全集2-1)、J.M.クッツェー『恥辱』(ハヤカワepi文庫)、『イエスの幼子時代』『遅い男』、マーガレット・アトウッド『昏き目の暗殺者』『誓願』(以上早川書房)『獄中シェイクスピア劇団』(集英社)、T.H.クック『緋色の記憶』(文春文庫)、ほか多数。文芸評論家、エッセイストとしても活躍し、『カーヴの隅の本棚』(文藝春秋)『熟成する物語たち』(新潮社)『明治大正 翻訳ワンダーランド』(新潮新書)『本の森 翻訳の泉』(作品社)『本の寄り道』(河出書房新社)『全身翻訳家』(ちくま文庫)『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくまプリマー新書)『孕むことば』(中公文庫)『翻訳問答』シリーズ(左右社)、『謎とき『風と共に去りぬ』: 矛盾と葛藤にみちた世界文学』(新潮社)など、多数の著書がある。 [書籍情報]『覚醒せよ、セイレーン』 著者:ニナ・マグロクリン / 翻訳:小澤 身和子 / 出版社:左右社 / 発売日:2023年06月5日 / ISBN:4865283676 毎日新聞 2023年6月10日掲載
鴻巣 友季子
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