【追悼’24】「スタッフや視聴者に失礼」鈴木健二さんがNHK退職の間際に見せた〝最後の気くばり〟
‘24年も多くの著名人が惜しまれつつ旅立っていった。過去に本誌が紹介してきた記事などをもとに、往時の活躍をふり返り、故人を偲ぶ──。 【いつもの笑顔が…】退職間際…寂しそうな表情で荷物を片付ける鈴木健二さん ◆テレビの歴史とともに── 元NHKの名物アナウンサー、鈴木健二さんは3月29日に老衰のため’95歳で福岡市内の病院で亡くなった。黒四ダムからの生中継(’63年)や全線開通前の東海道新幹線からの実況生中継(‘64年)、アポロ11号月面着陸特別番組の司会進行(’69)など、テレビの歴史とともに歩んだアナウンサーだった。 1929年に東京に生まれた鈴木さんは、テレビの放送開始前の’52年にNHK入局。アナウンサーを志望した理由は、一番志望者が少ない職種だったからだという。主に報道番組でその実力を発揮していたが、’70年代以降は教養・バラエティ番組の司会をすることが多くなった。ぽっちゃりした体形に丸顔と大きな黒メガネという親しみやすい風貌と当意即妙な話術は多くの人を惹きつけた。 鈴木さんといえば最も有名な番組は’81年から放送された『クイズ面白ゼミナール』だろう。同番組は’82年9月12日に視聴率42・2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)をマーク。過去に名だたる名番組の多いクイズ番組の中で、今なお史上最高となっている。 同番組では鈴木さんも問題作りに参加。1問の問題を作るために本を20冊読んでいたそうで、年間でだいたい1000冊読んだ勘定だ。それだけの読書家だけあって本の執筆も生涯で200冊以上手がけた。中でも’82年に出版した『気くばりのすすめ』(小社刊)は1年で430万部を超える大ベストセラーとなっている。 NHKを代表する人気アナウンサーだった鈴木さんは’83年~’85年に紅白の司会も担当している。出演者よりも派手な衣装などで注目を集めたが、中でも語り草になっているのは’84年の紅白だろう。 この年は歌手の都はるみさんが引退宣言をしており、紅白の大トリがラストステージだった。歌い終わった後、会場からアンコールの声が起ると鈴木さんが、「私に1分間ください」と会場に呼びかけた。そして、涙を流してしゃがみこんでいるはるみさんに懇願してアンコールを実現。紅白史上に残る感動のシーンを演出したのだった。このときの「私に1分間ください」という言葉は流行語にもなった。 ◆最後に見せた〝気くばり〟 ‘84年には理事待遇となったことで特別に定年を2年間延長されていた鈴木さんだったが、’88年1月にNHKを退職することに。本誌は退職直前の鈴木さんを取材している(’88年2月5日号)。鈴木さんはこれまでをふり返って次のように語っていた。 《アナウンサーとして、私は下手だったんです。だから他人以上に一所懸命やりました。失敗談? よく訊かれますがね。でもプロというのは失敗しないもんなんですよ。失敗したことを得々と話す人もいますが、 私は言えませんよ》 36年間で一番の思い出について聞いてみると──。 《昭和34(1959)年の桂離宮の生中継ですね。桂離宮にテレビカメラが初めて入ったんです。細かい雨が降ってまして、書院に入る時、あ、ここで陽が差せばなア、と思っていたら、その通りに陽が差し込んだんです。本当に嬉しかったですねえ》 そしてやはり注目されていたのは退職後の身の振り方だった。民放に移籍するのか?もしくはNHKの関連会社へ行くのか。あるいは選挙に出馬するのでは?という噂も囁かれていたのだ。すると、鈴木さんらしい「気くばり」に溢れた答えが返ってきたのだった。 《退職するまでは、今後のことに触れるわけにはいきません。一緒に仕事をしているスタッフや視聴者に対して失礼ですよ》 退職後の鈴木さんは執筆や講演活動の一方で熊本県立劇場の館長や、青森県文化アドバイザーをつとめるなど、伝統芸能の伝承活動に尽力した。’90年以降はテレビに出ることはほとんどなかったようだ。 鈴木さんは台本はすべて丸暗記してスタジオに臨んだという〝伝説〟がある。それは台本に書かれたことをそのまま話すのはアナウンサーとしてプロではなく、自分で調べた事実を加えて初めて自分の言葉で話すことができる、という持論があったからだという。こうした信念の上に成り立っていた鈴木さんのアナウンス術は職人芸であり、「最後の職人アナウンサー」とも呼ばれた。 ご冥福をお祈りします──。
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