北朝鮮が“激高”した「リビア方式」とは? 坂東太郎のよく分かる時事用語
開催されるのか、されないのか。一悶着の末、米朝首脳会談は予定通り6月12日にシンガポールで開催されることになりました。 【写真】イラン核合意離脱、2度目の訪中、南北会談中止……米朝首脳会談はどうなる? アメリカのトランプ大統領が24日にいったんは中止を表明しましたが、その際に理由として触れたのが、北朝鮮側の「大きな怒りと明らかな敵意」。これは「非核化」の手法をめぐる米国側の発言に対する北朝鮮の反発を指したものです。この発言は、ボルトン大統領補佐官(国家安全保障担当)が4月にテレビ番組で「リビア方式」がふさわしいという認識を示したこと。それに対して、トランプ米大統領が「リビア方式は考えていない」と打ち消した経緯もありました。 北朝鮮側が神経を尖らせる「リビア方式」とは何かを追ってみました。
「核廃棄の後に制裁解除」という順番
20世紀に入ってイタリアの植民地になった北アフリカの国、リビアは第二次世界大戦後の1951年、王国として独立。1969年に当時27歳のカダフィ氏らによるクーデタで王制が廃止され、カダフィ大佐をトップとする独裁政権がスタートしました。リビアはイスラム教スンニ派に属するアラビア人が多数を占め、カダフィ大佐もその1人でした。 さまざまな国に分かれているアラビア人が一つになることを夢見ており、独自の解釈とはいえ「社会主義」を唱えていました。ただ実質的には軍事独裁政権でしたが。したがって旧ソ連とは割と親密で、アメリカや北大西洋条約機構(NATO)諸国、イスラエルとは敵対します。また特異なキャラクターから、同じアラビア人国家とも仲良くなったり、対立したりを繰り返しました。1986年には米軍に空爆されるなど、主に西側(アメリカ陣営)から常に警戒される存在であったのです。 1988年のパンアメリカン航空機爆破事件(乗客ら270人死亡)に関与したとして92年にが国連安保理から制裁を受けました。91年にはソ連が崩壊。そんな中、カダフィ政権にとって、大きな課題となっていたのが核開発疑惑でした。 2003年、核を含む大量破壊兵器を保有しているとしてアメリカとイギリスがイラク戦争に突入したのも影響したのか、春ごろから米英と秘密裏に交渉を進め、同じ年の12月、核開発の放棄で合意しました。この時の核放棄の決めごとが「リビア方式」と呼ばれます。すべての核廃棄を実行した後に、見返りとして制裁を解除するというやり方です。 リビアはまず、核兵器など大量破壊兵器の開発を計画していたことを認めた上で、即時かつ無条件に放棄すると約束。国際原子力機関(IAEA)の査察受け入れにも合意しました。さらに、開発に関するデータや高濃縮ウランの生産に使われる遠心分離器などの装置もアメリカ側に渡しました。 日本エネルギー経済研究所の中東研究センターのレポートによると、カダフィ大佐の核放棄宣言と同時に、IAEAの核査察チームがリビアに入り、事務局長自らが関連施設4か所を立ち入り調査。「リビアは核兵器製造には達してない状況である」と述べました。また査察と同時に米・英の専門家による大量破壊兵器の除去作業も行なわれ、翌2004年1月から開発関連の資機材のアメリカへの搬送が始まり、3月までに完了しました。搬出された資機材は合計500トンに及んだといいます。 こうしてリビアの核施設は解体されました。これらの見返りとしてアメリカは2004年に経済制裁を解除し、2006年5月には国交を回復しました。