東大コンプを拗らせた昔の東北大生の「コンプレックス解消法」あまりに器が小さかった
講座制の大学には教育機能に加えて研究機能が期待され、大学院博士課程も設置されて研究者養成も託された。一方、学科目制の大学はもっぱら教育のための組織と割り切られた。予算面でも講座制の大学とそれ以外では雲泥の差が生じた(『新制大学の誕生』『帝国大学』)。 地方新制大学の母体の1つである師範学校(編集部注/教員を養成する学校。戦前の日本および日本の統治地域に存在した)が高等教育機関と見なされていなかったことから、大学昇格は「2階級特進」だ、とか、県下各地の学校を統合したためキャンパスが分散していることから「たこの足大学」、駅弁のある駅には国立大学があることから「駅弁大学」、といった揶揄が生まれた。 その一方で、研究機能や研究者養成機能を持つ旧帝大や一部の旧官立大が、その地方にある新制大学の教員ポストに強い影響力を持ったことは周知の事実である。たしかに大学はたくさんできたが、十全な機能を持つ大学は限定されていた。
● 私大が打倒東大を叫んでも 国からも社会からも支援はない 私立大学はというと、たしかに発展はした。寺崎昌男によれば、1959年から1974年の15年間で大学の総数は239校から410校に、大学在学生は約57万人から約159万人に急増した。この膨れ上がる学生数を吸収したのが、年平均10校以上のペースで新設された私立大学である。 「日本の大学教育の8割は私学に担われている」のが実態だが、教育設備は在学者数に比して劣悪で、図書館が狭く椅子1脚に学生数69人とか、水飲み場の蛇口1つあたり学生250人といったことが話題になる始末であった。私学に対する国庫補助が始まるのは1970年のことである(寺崎前掲書)。なお、大学学部生のうち8割が私学に属しているのは現在も同じである。 打倒東大を叫んでみたりすることがある早慶などごく一部の私大も、アイビー・リーグ(編集部注/アメリカ北東部のブラウン大学、コロンビア大学、コーネル大学、ダートマス大学、ハーバード大学、ペンシルベニア大学、プリンストン大学、イェール大学の総称で、伝統的に裕福なエリート校グループとされている)のような寄付金を集められるわけでもなかった。国家による補助も社会からの厚い支援も欠けた状態の中で、格差が固定化していったと見ることができる。