東大コンプを拗らせた昔の東北大生の「コンプレックス解消法」あまりに器が小さかった
第1の予想は、平等化説である。新制国立大学はたしかに制度上旧帝大と同等であり、「帝国」という仰々しい言葉も取れて東京大学、九州大学、山形大学、と地名がつくだけになった。すべてが平等になるという解釈にはそれなりの説得力がある。少なくとも、自分にそういい聞かせる材料にはなろう。 第2は帝大復権説で、こちらが一番現実に近い。寺崎昌男(編集部注/崎の「大」は正しくは「立」。教育学者。東京大学・立教大学・桜美林大学名誉教授)が指摘するように、大学間の格差が「重層的に顕在化」していくのが戦後大学史の実態であり、国立大学では旧帝大と新制国立大学の間には歴然とした差が出た(『日本近代大学史』)。 第3は私大逆転説で、米国が私大の天下だから日本もそうなるだろうという説である。戦前から資本主義の真の「精神的寵児」は私学であり、国家の論理で教育する官学は「継子」にすぎない、という見方も存在していた(丸山幹治「官学整理論に就て」『京都帝国大学新聞』1933年2月5日)。
● 「1県1大学」原則で 国立大学が「駅弁大学」に 現実には、東大を頂点とする大学の序列は維持された。天野郁夫らの研究に依拠してその過程を概観してみよう。 敗戦後、文部省は帝国大学の整備拡充に乗り出した。文・法・経・理・工・農・医を備える総合大学は東大と京大しかなかったため、文系学部のない北大・名古屋大・阪大にそれを設置するなどして、まず旧制のうちにいち早く帝大を総合大学化しようとした。 その後、「1県1大学」原則の下で、旧制官立大学や旧制専門学校、旧制高校、師範学校を統合して各県に1つの新制国立大学を作った。国立の「総合大学」は旧帝大だけで、地方新制大学はいわば寄せ集めの「複合大学」である。しかも、旧帝大では教授――助教授――助手をワンセットとして1講座を構成する「講座制」が維持されたのに対し、一部の旧官立大や医学部・歯学部を除き、その他の大学では科目に応じてポストを設置する「学科目制」が採られた。