「何を見てもあなたを思い出す」――残された妻が、深い悲しみの果てに見いだした“希望”とは
大病後、故郷に帰りたがった
夫の最後の4年間をわたしたちは彼の生まれ故郷ブルックリンで暮らした。それまではマンハッタンの先端に近いトライベッカのロフトに20年近く住んでいた。アメリカでは、倉庫や工場をリノベーションした住宅をロフトと呼んでいる。天井が高く、内部を好きにデザインできるので、彼の2万冊近い蔵書を入れる本棚を並べられたし、ふたりの仕事部屋のスペースもとれた。 夫は大病した後でブルックリンに住みたいと言い出した。「ゴーイング・ホーム」。誰しも最後には故郷に帰りたいと願う本能があるのかもしれない。実はそれまでにも時々、そんな言葉を発していたのだが、わたしは知らん顔していた。あまりに荷物が多すぎて、引っ越しなど考えただけでもうんざり。とはいえ、長い入院生活から車椅子でようやく帰ってきた彼の、か細くなった声で真剣に訴える願いには、ついに「ノー」といえなくなった。 ブルックリンはすっかり人気のエリアになったので家賃も上がり、なかなか住めるようなアパートはなかった。初めの2年は「Coop」と呼ばれる共同所有の大きなアパートにいたが気に入らず、それでも根気よく物件を探すうちに、19世紀に建てられた褐色砂岩(ブラウンストーン)5階建の1、2階デュープレックス(階段でつながっているタイプの物件)が見つかった。 「庭のある家で本を読んで過ごしたい」というのが夫の願いだった。
一つの時代を築いた、反骨のジャーナリスト
わたしの夫はピート・ハミル。 日本では映画「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」の原作者として知られるが、米国ではベトナム反戦運動が盛んだった60年代、いち早く反戦を訴え、市民の声を代弁するコラムニストとして、ニュージャーナリズムの旗手として大いに健筆をふるった。ニューヨーカーの横顔を描く短編のほか小説も発表、自らの半生を描く『ドリンキング・ライフ』、歴史小説『フォーエヴァー』などがベストセラーとなった。 コラムニストとして活躍していた頃、ピートはプロスペクト公園に面した大きな家に住んでいた。この家は当時から数倍以上値上がりしており、本人も手放したことをしきりに後悔していた。 その点、褐色砂岩のアパートは彼の希望にほぼ沿ったものだった。大きな庭があるし、2階には庭を見下ろすバルコニーがある。唯一の難点は家賃が予算を遥かに超えていることだったが、清水の舞台から飛び降りる覚悟で借りることにした。 わたしたちはここで最後の2年を過ごし、彼がいなくなった後、わたしは長く住んでいたトライベッカのロフトへ戻って、ひとり暮らしをするようになった。 ピートが天に召されたのは2020年8月5日。わたしは毎月5日になると、花束をもってブルックリンのグリーンウッド墓地を訪ねる。最寄りのキャナル・ストリート駅から墓地へ向かうと、その急行はマンハッタン・ブリッジの上を走ることになり、西側にかかるブルックリン・ブリッジが自然と目に入る。