ナゴヤ球場からドラゴンズが去る日~本拠地移転に思う感動の歴史と別れの哀愁
未来に向かう嬉しさと同時に、何とも言えない淋しさもある。中日ドラゴンズが、名古屋市中川区にあるナゴヤ球場から別の場所へ、2軍の拠点を移す検討に入ったことを明らかにした。竜の歴史を刻んできた球場も老朽化によって、時代の節目を迎えることになる。(敬称略) 【画像】2024シーズンの中日ドラゴンズを画像で振り返る!【ギャラリーはこちら】
懐かしの「中日スタヂアム」
ナゴヤ球場は、名古屋駅からJRや名鉄の線路に沿って南へ向かった場所にある。周辺は昔からの名古屋の下町である。中日スタヂアム(俗称:中日球場)の時代、終戦直後の1948年(昭和23年)に開場し、翌年から、ドラゴンズの公式戦で使われてきた。 1997年(平成9年)にバンテリンドーム(当時はナゴヤドーム)ができるまでは、昼間は2軍のウエスタン・リーグの試合、夜は1軍のペナントレース公式戦という"ダブルヘッダー"使用も珍しくなかった。しかし、長い歳月で老朽化が目立ち、こうした本拠地の移転を進める他球団も多い中、ドラゴンズも今回の移転検討になった。
魅力あふれた屋外球場
ドラゴンズファンには、屋外であるナゴヤ球場、特にナイターのゲームを懐かしむ人が多い。球場近くで生まれ育った筆者もそのひとりである。ナイターの開催日は、夜空一帯に球場のカクテル光線が映えた。それに照らされたグラウンドの芝生の緑色は、本当の美しかった。 試合の勝ち負けにかかわらず、7回に入ると、外野席が無料で開放された。それに向けて、自転車で駆けつけて応援した少年ファンは多かった。センターバックスクリーン裏にあった店では、売れ残った焼きそばなどを子どもたちに振る舞った。外野フェンスも低く、スタンドとグラウンドとの距離も近かったため、ファンの声援もヤジも選手に直接届いた。"人肌の温かさにあふれた"球場だった。
20年ぶりのリーグ優勝
その球場で、数えきれないほど、ドラゴンズの熱闘とドラマを目の当たりにしてきた。1974年(昭和49年)、讀賣ジャイアンツの10連覇を阻止して、20年ぶりのリーグ優勝を決めた試合の感動は鮮明である。最後の打者のライナーを三塁手の島谷金二がキャッチすると、マウンドのエース・星野仙一が帽子を脱ぎ捨てて仁王立ちした。そこにキャッチャーの木俣達彦が飛びつく。グラウンドにはスタンドからファンが続々と押し寄せて、与那嶺要監督の胴上げは、選手とファンが一体となって行った。それが中日球場時代の思い出のひとつ。