「ロシア革命」から100年 世界に今も問いかけるものは?
100年前の1917年、「ロシア革命」が起こり、世界初の共産主義国家ソビエト連邦が誕生しました。ソ連は1991年に崩壊しましたが、貧困や格差が世界的に広がるなか、2016年米大統領選で「民主社会主義者」を自認するバーニー・サンダース氏が民主党候補の座をヒラリー・クリントン氏と争って若者から支持を集めるなど、社会主義、共産主義への関心は再び高まっています。 【動画】第一次世界大戦から100年 どんな戦争だった?(2014年3月配信) 11月7日は、中心的な革命である「10月革命」(旧暦10月25日)が起きた日です。 その理想や思想を一つの形にしたロシア革命は、どのようにして、何を実現させたのでしょうか。ロシア革命を振り返ります。(国際政治学者・六辻彰二)
■血の日曜日事件(1905年)
ロシア革命を支えた「社会主義」や「共産主義」は、19世紀半ばごろからヨーロッパ各国で広がり始めました。当時、資本主義経済の発達に伴い、資本家と労働者、都市と農村の格差が拡大し、生活に困窮する人々が増加。高額納税者だけが選挙権をもつ制限選挙が一般的だったため、労働者の権利を守る法律さえ十分ではありませんでした。 これに対して、雇用環境の改善などを求め、工場や農地など生産手段の共有によって平等の実現を目指す労働者のイデオロギーとして社会主義が台頭。社会主義に属する考え方には、私有財産の制限を制限する労働共同体を設立したロバート・オーウェンから、英国のフェビアン協会のように議会制民主主義の中で社会保障の充実や労働者の権利保護の実現を目指した社会民主主義に至るまで、幅広く含まれました。その中で「科学的社会主義」(共産主義)を標榜するより体系的な理論を打ち出し、それまでの社会主義と一線を画したカール・マルクスは世界に大きな影響を及ぼしました。 その主著『資本論』(1867年)でマルクスは「労働者への搾取が雇用主に利潤をもたらし、これが資本の蓄積を可能にし、産業の進歩を促してきた一方、労働者を窮乏化させてきた」と論じました。その上で「資本家に乗っ取られた国家が戦争を繰り返す」と告発し、「資本主義の矛盾が革命をもたらす」「各国で労働者が連帯して革命を起こせば国家も死滅する」とも予見しました。また、主張こそ多少の違いがあっても、どの政党も結局資本家によって握られていると捉える共産主義では、その解決策として、労働者(プロレタリアート)の利益を代表する政党のみを認める一党制が提示されます。 共産主義は革命を不可避のものと捉えたため、富裕層の影響が強い各国政府から「危険思想」と位置付けられ、取り締まりと弾圧の対象になりました。しかし、ドイツなど西欧だけでなく、皇帝の専制が続き、工業化や民主化に遅れていた帝政ロシアでも1898年に社会民主労働党が発足。都市を中心に共産主義が徐々に浸透していったのです。 ただし、社会民主労働党は1903年の党大会で、合法的活動を重視し、資本家との一時的妥協も受け入れる「メンシェビキ」(少数派)と、あくまで革命を目指す「ボリシェビキ」(多数派)に分裂するなど、方針をめぐる不一致も目立ちました。 多様な勢力が政治改革を目指していた1905年1月、ロシアで「血の日曜日事件」が発生。当時は日露戦争(1904~05年)の最中で、戦費の負担に苦しむ農民が皇帝に窮状を訴えようと各地からサンクトペテルブルグに集まったところ、軍の発砲で多くの死傷者が出たのです。これを受けて、一般兵士の反乱なども相次ぎ、皇帝は国会の設置や土地改革などを約束せざるを得なくなりました。 これは「第一次ロシア革命」とも呼ばれます。しかし、設立された国会は形式的なものにとどまり、土地改革で私有地を得た農民もわずかだったため、帝政を決定的に転換するものにはなりませんでした。