「ロシア革命」から100年 世界に今も問いかけるものは?
■スターリン時代:強権の下で「ソ連」完成
しかし、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の憲法が裁可されたのと同じ1924年1月、レーニンが病死。これにより、状況は大きく転換しました。 その死の約2年前から、病床のレーニンに代わりヨシフ・スターリンが事実上の最高権力者である共産党中央委員会書記長に就任。スターリンに関して、レーニンは生前「あまりに粗暴」で、誰か別の書記長が望ましいと書き記していました。 そのスターリンの下での最大の転換の一つは、1929年5月に打ち出された第一次五カ年計画でした。ここでは重点項目として工業化、なかでも衣類など人々の生活に密接した消費財ではなく、工業化そのものを支える生産財の生産増加が掲げられました。 レーニン時代、税収の多くを支える農村の負担が大きいため、国営企業中心の大々的な工業化は控えられました。これに対して、第一次五カ年計画では鉄鋼、エネルギー、トラクターを含む自動車や鉄道、そして軍事の各産業への予算投入が急速に進むことになったのです。 その一方で、農業の「合理化」も加速。「非効率的で技術水準の低い」とみなされる小農をコルホーズで集団化することは、農民の抵抗を受けてレーニン時代には抑制されましたが、スターリンの下で強制的に進められたのです。これと連動して、都市への食糧供給が優先され、農民の食糧備蓄は告発の対象となり、抵抗する者はシベリアに流されました。共産党内部でも、反対する者が躊躇なく粛清されるようになったのも、スターリン時代の大きな特徴です。 スターリンはレーニンを神格化し、自らをその後継者と位置付け、共産主義革命の先導者の地位につきました。その一方で、スターリンは西欧諸国に「追いつき、追い越す」ために経済、軍事の近代化の必要性を強調しました。つまり、スターリンの下でソ連は「国家の死滅」をゴールとする共産主義よりむしろ、「強い国家を作る」ナショナリズムに傾いていったのです。イギリスの歴史学者E.H.カーは「スターリンはピョートル(ロシアの近代化を進めた18世紀の皇帝)以来、ロシアに現れた最も残酷な専制者であり、また偉大な西欧化推進者であった」と評しています。