小説は「不謹慎な方がいい」筒井康隆が語った『時をかける少女』時代や直木賞選考委員を揶揄しまくった小説(レビュー)
何を書いても許される作家に
小川 今日は筒井さんに――僕はファンなので知っていることも多いのですが、ラジオを聴いている人のためにも――いろんなことをお尋ねしたいと思います。作家としてのキャリアは、もう何年くらいになりますか? 筒井 大学時代にも何かしら書いていましたが、卒業後に乃村工藝社へ入ってから、同人誌(「NULL」)を出して、何とか認められてプロになりました。〈ハヤカワ・ファンタジイ〉というポケットブックのシリーズが出て、その後「SFマガジン」も創刊されて、僕はSFを知ったんですよ。それで自分でも本格的に書きたくなって、会社帰りの電車の中で「同人誌を作ろう」と思いついた。弟たちも文才があるようだったから、家族で同人誌を出せば話題になるだろう、と。 小川 狙い通りになって、そこからやがて商業出版に移られた。 筒井 「NULL」創刊号に書いた「お助け」が、すぐ乱歩さんの推薦で「宝石」(六〇年八月号)に転載されましてね。でも、同人誌を出したのが二十五歳で、「どうやら作家として生活していけるな」と結婚して上京するのが三十歳ですから、ずいぶん長くかかりました。 小川 上京して専業作家になられて、最初に出した単行本が短篇集『東海道戦争』(六五年)ですね。僕の父が筒井さんの大ファンで、家に筒井さんの本がたくさんあったんです。あまり本を薦めることのない父が珍しく薦めてきたのが『東海道戦争』。でも、僕が最初に読んだ筒井作品は『農協月へ行く』(七三年)で、小説を読んで初めて腹を抱えて笑うという体験をしました。実は父親の田舎が農家で……。 筒井 それは申し訳ない(笑)。 小川 あの農家の感じとか人びとの雰囲気とか、僕はよく分かりました(笑)。僕がハヤカワSFコンテストでデビューしたのは二〇一五年ですが、筒井さんは六〇年代からSFを書いてきた。もう六十年くらい経つわけですが、いまだに『カーテンコール』にもSF的な作品が入っています。その一方で、キャリアの途中から、実験的な純文学も書くようになられた。どんな考え方の変化があったのでしょうか? 筒井 ひとつには前衛的なものへの憧れがあったのでしょうね。『脱走と追跡のサンバ』(七一年)という実験的な長篇小説を「SFマガジン」に連載したけど、誰も評価してくれなかった。そこへ塙嘉彦という「海」の編集長が現われて「もっと前衛的なものを書いてくれ」と言われたので「しめた!」と。でも僕がいちばんに考えていたのは、読者をもっと広げたい、ということですよ。 小川 それで『虚人たち』(八一年)や『虚航船団』(八四年)などから、「最後の長篇小説」と謳われた『モナドの領域』(二〇一五年)や『ジャックポット』に至る、SFと実験的な純文学がクロスオーバーする作品をずっと書かれてきました。いま仰ったように、筒井さんが作家として大切に考えることは、読者を増やす、ということになるのでしょうか。 筒井 単に読者の数が多いというのではなくて、「何を書いても筒井康隆ならば許す」、別の言い方をすれば「おれならば何を書いてもいいんだぞ」(笑)、そういう作家になりたいと思っていますね。今でもね。 小川 とっくに、そうなってらっしゃると思います(笑)。そんな存在は筒井さんしかいないとも思いますが、自覚的にそういう作家になろうとされたんですね。 筒井 よく言われることだけれども、僕は「ビックリおじさん」で、人をビックリさせるのが好きなんだね。だから、純文学の小難しいものを書いても、それはそれで読者が驚いてくれる。そこが僕の喜びなんですよ。 小川 それは筒井さんが長年かけて作り上げた読者との信頼関係があるからこそ、ですよね。「純文学の小難しいもの」の一方で、『時をかける少女』のような、何度も映像化される、どストレートで親しみやすいSF作品も書かれています。あれはどんな構想で書かれたのでしょう? 筒井 上京してすぐの時期だったと思いますが、SFというジャンルが注目され始めて、中学三年生向けの学習誌に連載を頼まれたんですよ。「SFを書け」という注文だったけど、学習誌だからドタバタは書けないわ、〆切は迫ってくるわで本当に困って、それこそ代々木公園をぐるぐる歩いて構想を考えたことをおぼえています。 小川 ああ、筒井さんも困った時は散歩して構想を練るんですね。 筒井 いや、もうあの時だけです。蓮實重彦さんはあの作品ばかり褒めてくれるから弱っちゃうんだよね(笑)。まあ僕とすれば、本が売れてくれたら、それでいいんですけどね。 小川 どこかで『時をかける少女』のことを、たくさん稼いでくれる親孝行娘だとお書きでしたね(笑)。実験作の方は本当に枚挙にいとまがなくて、パソコン通信時代には、電子会議室の意見をもとに執筆を進めた新聞連載小説『朝のガスパール』(九二年)もありました。 筒井 あれは十八世紀のイギリスにサミュエル・リチャードソンという作家がいまして、自分で新聞を発行していたのかな。そこに載せる小説は読者の意見を参考にして次の展開を決めていたのだそうです。それを知って、せっかくパソコン通信時代に新聞連載をするのだからと、読者参加型にしたんです。 小川 もうひとつ、最近またベストセラーになった『残像に口紅を』(八九年)は、世界から言葉がだんだんなくなっていく、という実験作です。あれはどういう発想だったのですか? 筒井 当時、初めてワードプロセッサーを買ったんですよ。あれ、違ったかな? 『残像に口紅を』を書くためにワープロを買ったのか、ワープロを買ったからあんな作品を思いついたのか、思い出せない(笑)。ワープロで最初に書いたのが『残像に口紅を』であることは確かです。 小川 使える字がどんどん減っていくので、執筆はとても大変だったと思いますが、どういうふうに書いていったのでしょう? 詳細なメモとかおありでしたか? 筒井 メモは取ってなかったですね。消えた文字のキーボードを打てないように画鋲を貼ったとか言っていましたが、実際、使えなくなった文字の上に赤い紙を貼っていきましたよ。あれはたいへんだった。 小川 これは『ガスパール』や『残像』よりも前の作品ですが、『大いなる助走』(七九年)という長篇もありました。僕も大笑いしながら読みましたが、これは直廾賞という架空の文学賞に落選した作家が選考委員をどんどん殺していく小説です。実際に筒井さんは何度か直木賞の候補になっては落とされるという経験がおありですが、直木賞選考委員に対する恨みなどではなく、こういう小説を書いたら面白いぞと思って書かれたのだろうなと感じます。 筒井 そう仰って頂ければありがたいです。 小川 僕は小説家だからわかりますが、本当に直木賞が欲しかったら、あんな小説は書きませんよね。書いたら、絶対に直木賞をもらえない(笑)。一方、読者は「筒井は直木賞を欲しすぎて、おかしくなっちゃってる」と的外れに思うかもしれない。そんな可能性まで含めて、面白がってやろうという感じでしたか? 筒井 そこまでは考えなかったですね。直木賞の勧進元の文藝春秋の雑誌(「別冊文藝春秋」)で、選考委員を皆殺ししてやろうなんて小説を連載するのは、みんな面白がってくれるだろうと思っていました。でも、考えてみれば「復讐したい」という気持ちも少しはあったかな(笑)。こちらも人気作家になっていましたから、「やり返せるものなら、やってみろ」くらいは思っていたかもしれないね。何かに書いたけど、やっぱりある選考委員が編集部に「あの連載をやめさせろ」とねじ込んできたらしいですよ。「一番ぶあつい唇で怒鳴り込んできた」とか書いたから、誰のことかわかるよね。