<神戸児童殺傷事件> 元少年の手記「絶歌」を犯罪学の視点から読む
1997年に神戸市で起きた連続児童殺傷事件の加害男性(事件当時14歳)の手記『絶歌』の出版をめぐり、議論になっている。遺族感情や表現の自由の問題など、さまざまな論点があるが、「同種の事件をどう防ぐか」という視点で手記を読むと何が見えてくるのだろうか。犯罪学が専門の小宮信夫・立正大学教授に寄稿してもらった。 ---------------- 神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)の加害男性(元少年A)による手記「絶歌」(太田出版)が波紋を呼んでいる。出版への賛否が渦巻く中、犯罪学者の視点から、この本の価値と影響を考えてみたい。
元少年Aはなぜ恐ろしい罪を犯したのか
神戸家裁の少年審判決定全文(文芸春秋5月号)によると、殺人の主たる原因は「性的サディズム」だという。これは、通常であれば、異性の身体的特徴(視覚的刺激)によって起こる性的興奮が、相手に苦痛を与えることで起こる性的嗜好である。ただし、性的サディズム自体は合意があれば犯罪にはならないので、元少年Aの場合は、それがエスカレートし、人を殺したり遺体を損壊したりすることで性的満足を得る「快楽殺人」に至ったのだ。「絶歌」の中にも、快楽殺人の場面がたびたび登場する。 ではなぜ、「快楽殺人」というダークサイド(暗黒面)に落ちてしまったのか。その答えは、元少年A自身が出している。 「祖母という唯一絶対の“錨”を失い、僕の魂は黒い絶海へと押し流されていった(『絶歌』p.44)」 つまり、元少年Aをライトサイド(光明面)につなぎとめていた「社会的絆」は祖母であったが、その死によって絆が断ち切れてしまったのだ。しかも「絶歌」では、祖母の部屋で祖母の遺品を使って精通を経験したと告白している。最愛の祖母でさえ、快楽の道具へと変質したことがうかがえる。 ここで疑問がわくかもしれない。普通、「社会的絆」は母親ではないのかと。母親と元少年Aとの関係は、審判決定と手記では正反対に描かれている。審判決定からは、乳児期の母親との接触不足(愛着障害)や児童期のスパルタ教育(虐待)が原因で自尊感情や他者への共感性が育たず、そのため攻撃衝動を抑えきれなかったことが読み取れる。ところが、手記ではそうした記述はない。 おそらく、現在では母親との関係が良好なため、あえてこの点には触れなかったのだろう。実際、母親が発表したコメントを読むと、医療少年院に入った当初は面会を拒絶されたが、5年を経たときに心が通い合ったことが分かる。元少年Aは、そうした「社会的絆」を自ら断ち切ることは避けたかったに違いない。