「◯◯電車ではよ帰れ」「◯◯電車はボロ電車」不適切なヤジが飛んだ昭和のプロ野球鉄道対決
6月9日に甲子園球場で行われるプロ野球交流戦の阪神-西武戦は「ファン参加型鉄道対決!」をテーマに、オリジナルの「駅員キャップ」が入場者全員にプレゼントされる。阪神球団が「みんなで駅員になりきり、鉄道対決を盛り上げよう!」と呼びかけるイベント。「親会社が鉄道会社の球団」はいまや両チームだけ。かつては12球団中6球団が鉄道系だった歴史があり、とくに関西の阪神、阪急、南海、近鉄の「同業」の4球団はファンもチームもしのぎを削った。 【写真】西武戦で2打席連続本塁打を放ち、上田利治監督(右から2人目)らに祝福される福本豊(同3人目)=1982年5月 「沿線に本拠地球場をつくって運賃収入を得るとともに、沿線のイメージアップを図る」というビジネスモデルのもと、古くから鉄道会社とプロ野球の関係は強い。セ・パ6球団ずつと現在の形になった1958年、セには阪神、国鉄(運営は国鉄の外郭団体)、パには阪急、南海、近鉄、西鉄と実に半数の6球団の親会社が鉄道事業者だった。36年に結成された日本職業野球連盟には大阪タイガース(阪神)、阪急(ほかに旧西武系の東京セネタース)が名を連ね、戦後になって東急、名鉄なども球団経営に加わっていた。 パの関西3球団はそれぞれ個性的なチームだった。阪急は「世界の盗塁王」の福本豊、サブマリンの山田久志、外国人選手ではブーマー。南海は監督兼任捕手だった野村克也、アキレス腱断裂の故障を乗り越えた門田博光、甲子園のスターで「ドカベン」こと香川伸行。近鉄は「草魂」の鈴木啓示、「赤鬼」のマニエル。名前はいくらでも挙がる。昭和の時代、阪急は西宮球場、南海は大阪・難波に大阪球場、近鉄は藤井寺球場、日生球場が本拠地。現在のドーム球場のように女性や子供が観戦するような雰囲気はなく、いわゆる「昭和のおっさん」が幅を利かせていた。 そんな人たちによるヤジが特徴的だった。応援するチームがリードを奪い、勝利をほぼ確実にすると「電車が混むからはよ帰れ」「〇〇電車ではよ帰れ」と叫んだ。近鉄ファンは「〇〇電車はボロ電車、近鉄電車は2階建て」となぜか野球場で近鉄特急の車両を自慢した。スポーツ新聞の見出しは、連勝が続くと「〇〇電車ノンストップ」とするが、負けが込むと「〇〇電車は各駅停車」と鉄道にかかった言葉を使った。コンプライアンス的にどうかという部分はあった。 阪急、南海は強かった。それぞれ上田利治監督、鶴岡一人監督のもと黄金時代を築いた。阪急は優勝すると阪急百貨店でセールが大々的に行われ、買い物客が押し寄せた。ただ、昭和40年代の巨人には歯が立たず、9年連続の日本一(V9)を許した。福本豊さんは「南海、近鉄にはライバル意識はあった。それと同じく巨人、巨人とリーグで戦う阪神にも対抗意識はあった」と振り返る。