冤罪をなすりつけられ、「抗議するために餓死」 平安京へと遷都するきっかけになった早良親王の「呪い」とは
奈良時代には、非業の死を遂げた早良(さわら)親王の“霊”が、怨霊となって祟ったと一般的に信じられていた。現世に本当に″魂″を出現させたかどうか定かではないが、兄・桓武天皇に対して、深い怨みを抱いていたことは間違いなく、その死の影響を宮廷内外の人々が怖れていた。 怨霊は本当に祟るのか? かつて、自殺や殺害、事故などで非業の死を遂げた人の霊魂は、突如肉体が滅びて居所がなくなったため空中を彷徨(さまよ)わざるを得なくなる…と考えられていたようである。もちろん、誰も確かめた人などいないわけだから、事実かどうかはわからない。それでも、昔の人々にとっては、至極当たり前のことと思われていたようだ。しかもその場合の霊魂は、怨霊と化して世に祟りを為すと考えられていたから、まさに鬼そのもの。実のところ、厄介な存在なのである。 よく知られるところでは、日本三大怨霊にも数えられた平将門をはじめ、崇徳天皇や菅原道真らが祟って出たとか。いずれも、政権争いに巻き込まれた挙句、陥れられた人たちである。ここで紹介する早良親王もまた、権力闘争の狭間の中で、身に覚えのない罪をでっち上げられたことで抗議のために食を絶ち、そのまま餓死してしまったという、おぞましい死に様が語り継がれた人物であった。 陥れられて抗議の餓死 時は桓武天皇(737~806年)の御世のこと。父は光仁(こうにん)天皇、母は百済(くだら)系渡来(とらい)氏族(武寧王の子孫とされる和氏か)の高野新笠で、兄の山部親王が桓武天皇として即位すると同時に皇太弟に立てられたというから、将来を嘱望された人物であったに違いない。 ところが、延暦4(785)年、新都建造使長として長岡京造営の任に当たっていた藤原種継(たねつぐ)が、何者かに射殺されるという事件が起きた。首謀者として遷都に反対していた大伴一族(大伴家持も首謀者のひとりとされた)が捕らえられたが、同時に、早良親王までもが関わっているとみなされてしまったのである。真相は不明ながらも、親王は長岡京乙訓寺(おとくにでら)に幽閉されてしまう。もちろん、身に覚えのない親王は、無実を訴えて断固抗議。しかし、訴えが認められるわけもなく、ついに、淡路島へと流されていったのである。 ここで親王がとった手段が、絶食という危険な行為であった。都を出立して10日余りのこと。河内の国高瀬橋(大阪市旭区守口の高瀬神社あたりか)に差し掛かったところで、とうとう亡くなってしまった(餓死させられたとの説もある)のだ。一説によれば、親王を罪に陥れたのは、兄の桓武天皇だったとか。長男である安殿(あて)親王に跡を継がせたいとの思いから、弟を罪に陥れたというのだ。ともあれ、事件に関わり有りとみなされた人物が捕らえられたことで、政権側としては、一件落着と胸をなでおろしたはずであった。 後ろめたさが祟りの本質か? ところが、事件はこれで解決したわけではなかった。親王が憤死してほどなく、宮廷内で次々と不幸が続いたからである。まず、天皇の夫人・藤原旅子(たびこ)が若くして亡くなったのをはじめ、皇后や側室なども次々と亡くなっていった。次の天皇にと期待を寄せていた安殿親王も病に倒れ、その妃である藤原帯子(たらしこ)までもが急死。この頃までには、天皇の恐怖心も最高潮に達していたに違いない。親王を陥れたという後ろめたさがあったがゆえに、それが親王の祟りだと、本気で信じたのだろう。 慌てた天皇は、急遽親王に崇道天皇の諡号(しごう)を追贈した上で、遺骸を淡路国津名郡の山陵から大和国八島陵へと改葬。さらに、怨霊を鎮めるために、崇道天皇社(奈良市西紀寺町他)をはじめ、各地に御霊神社を設けて祭り上げたのである。 それでも安心しきれなかったのか、長岡京を見捨て、平安京へと遷都することにしたのである。都の名の「平安」に込められた天皇の思いは、いうまでもなく、自らの心の平安を願うものであったに違いない。はたして霊魂なるものが存在して本当に祟りを為すものかはわからないが、後ろめたさがなければ、おそらく有り得るようなものではなかったと信じたい。 ちなみに、『鬼滅の刃』にも、魂(ここでは霊魂ではなく魂。魂=心、霊=精神と解釈されることもあるが、これは少々難解)が登場する。それは、鬼の童磨が鬼滅隊の胡蝶しのぶに仕込まれた藤の毒によって滅びてしまう間際のことである。しのぶはすでに、童磨に食い殺されていたが、童磨の今際の際にしのぶの魂が出現して語り合ったというのだ。しのぶは死んだ両親とも再会を果たしているが、あくまでもそれは死後の世界でのこと。現世に魂を出現させることはなかった。 彼岸会は早良親王の祟り封じ? この霊魂の存在及び現世に出現するかどうかは、おそらくどこまで議論しても明確になることはないだろう。ならば、このお話は横に置いて、早良親王ゆかりのお話を最後にもう一つ記しておくことにしたい。それが、彼岸会(ひがんえ)のことである。彼岸会といえば、いうまでもなく春分と秋分の日を中心とした前後7日間(お彼岸)に催される仏教行事のこと。この頃になれば、多くの人が先祖を供養し、感謝を捧げるために墓参りをするというのが当たり前…と思われているに違いない。 ところがこの行事、仏教行事と言いながらも、発祥地であるインドや中継地に当たる中国では見られない日本独自の行事だということをご存知だろうか。最初に催されたのは、延暦25(806)年のこと。それは早良親王が亡くなってから21年目のことであった。つまりこの仏教行事、実は崇道天皇こと早良親王の怨念を鎮めることを目的としてはじめられたものだったというのだ。朝廷から各国分寺に対して、怨霊を鎮めるために「金剛般若波羅蜜多経」を読経するよう御触れが出たことが皮切りで、以降慣習化され、ついには今日のように庶民の間に広まっていったというのだ。諸説あるかとは思われるが、ともあれ、次のお彼岸の折には、是非とも親王のことにも思いを馳せていただきたいものである。
藤井勝彦