日本人が母国語で演じたシェイクスピアはルーマニアでどう評価されたのか? 翻訳家・松岡和子が見たシビウ国際演劇祭
CGやAIの時代に「最先端にあるのがライブ」
松岡さんはこうも言う。「CGやAIの発達によってフェイクなものが増えて画像や映像が信頼できなくなっているなか、信用できるのは生身の人間が目の前にいるライブだけになっている。一周回ってライブがパフォーミングアートの最先端に来ているのです」。 その生の瞬間を全身で受け止めるように、松岡さんは自分が訳した言葉に音と動きを与えていく俳優たちを食い入るように見つめ、愉快な場所では笑い声を上げて味わっていた。 舞台稽古と2回の公演の合間を縫って、松岡さんはバレエダンサー、ミハイル・バリシニコフが肉体を論じた一人芝居を撮影したベルギーの演出家ヤン・ファーブルの映画を見て、動物たちに会いにシビウ動物園に足を運び、メインストリートで繰り広げられる数々のパフォーマンスを楽しんだ。 演劇の街シビウを何度も訪れている松岡さんには、楽しみにしている食べものがある。チョルバと呼ばれ、鶏や牛、豚の内臓などを煮込んだシチューで様々な種類がある。サワークリームで少し酸味を効かせてあり、確かにクセになる味だった。正味4日の滞在の間に2回食べることができた。
ドローンショーで描かれた「やさしさが流れる」
夏至の夜、国立ラドゥ・スタンカ劇場脇の広場で、演劇祭の始まりを祝うドローンショーが行われた。争いが蔓延する時代の演劇祭はどうあるべきかという主催者の思いを込めた2024年のテーマ「フレンドシップ」が、ドローンの編隊によって夜空に描き出された。 この演出の中で、松岡さんと私が思わず顔を見合わせる一幕があった。男の子と女の子(だったと思う)が向き合って手を取り合うと、心臓から体をくるりと巡った赤い血流(のようなもの)が、つないだ手を通して、もう1人の体の中に流れ込んで一巡したのだ。 まさに「やさしさが流れた」。 4月に上梓した拙著『逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事』の中で多くの人に心に響いたと言ってもらった一節だ。義母が認知症になった時、松岡さんは3年間自宅で介護した。折り合いの悪かった義母の介護を自分の健康を害するまでやったのは何故かと問う私に、松岡さんはこう答えた。「触れるとやさしさが流れる」からだと。義母の弱々しい体に触れて背中を流していると、頭には厭な思い出が残っていても手からやさしさが生まれて相手の体に流れていく。松岡さんはそれを実感したから介護を続けられたのだと言った。 ルーマニアの北で国境を接するウクライナでは今も戦争が続いている。ドローンはそこで暗躍する新たな戦争の道具でもある。そうした複雑な気持ちはありながらも、夜空に描き出される「やさしさが流れる」光景を見ていると、このやさしさが世界に流れてくれたらどんなにいいかと祈らずにはいられなかった。 【もっと読む】「実にしなやかで逞しい」直木賞作家・松井今朝子がみた、シェイクスピア戯曲を完訳した翻訳家・松岡和子の半生。 ***** 草生亜紀子(くさおい・あきこ)……国際基督教大学、米Wartburg大学卒業。産経新聞、The Japan Times記者、新潮社、株式会社ほぼ日を経て独立。2024年4月現在、国際人道支援NGOで働きながら、フリーランスとして翻訳・原稿執筆を行う。著書に『理想の小学校を探して』(新潮社刊)、中川亜紀子名義で訳した絵本に『ふたりママの家で』(絵・文パトリシア・ポラッコ、サウザンブックス社刊)がある。 yom yom 2024年8月13日掲載
新潮社