ベトナムで「日本の会社」支える女性社長の生き様 丸亀製麺、吉野家、マツキヨなど提携先増やす
「30年前は考えられませんでしたが、少しずつ、ようやくここまできました」とメイさんは感慨深げにいう。 メイさんは、ベトナム戦争中の1971年、首都ハノイに生まれた。戦争の記憶はないそうだが、旧ソビエト連邦の軍事支援を受けていた北ベトナムの街には多くのロシア人がいて、幼い頃から外国の人や文化に興味を抱いていた。 専門学校の講師をしていた父親は教育熱心で、4歳のメイさんに読み書きや計算を教え始め、小学校に入学する年齢には、一通りの基礎学力を身につけていたという。
「父がつけてくれた、私の名前の由来は、有名なポエムからとった雲と雨。雲から生まれる雨が1滴ずつでも毎日続けば石でも削れる、石にも勝てるという意味です。毎日コツコツ勉強して、頭も心も鍛え、世の中の役に立つ人になりなさいと言われて育ちました」 ■意外なきっかけで日本に興味を抱くように 小学生のある日、1時間のテストを10分で終わらせたメイさんは、ひまつぶしに上級生のクラスに入り、解き方を教えているところを先生に見つかった。怒られるかと思いきや、その先生が提案したのは「飛び級」だった。
1986年、メイさんは15歳で、旧ソ連・ベラルーシの外国語大学に約100人のベトナム人大学生とともに国費留学した。 ベラルーシでの生活は、食文化や生活水準のあまりの違いに驚きの連続だった。そして意外なことに、メイさんはそこで初めて「日本」に関心を持つきっかけをつかんでいる。 「ベトナムでは、ごはんと塩だけという食事ばかりだったのが、ベラルーシは都会で、肉が食べられる。牛乳やチーズ、バターを味わったのも初めてでした。いつも『すごい、すごい』と繰り返し言っていたら、ある時近所のおばさんにこう言われたんです。『日本の製品はもっとすごい、これから日本はすごい国になる、帰ったら日本語を勉強したほうがいい』、と」
大学で成績優秀だったメイさんは卒業後も、大学院へ奨学金付きの進学が約束されていた。だが、帰国を申し出てベトナムに戻ったのは1989年の夏、18歳のときだった。図らずも、それからおよそ3カ月後、ベルリンの壁が崩壊、そしてソ連崩壊へと続いた。 ベトナムに帰国したメイさんが迷わず始めたのが、日本語の習得だった。夜間の貿易学校に2年通って、日本語と貿易実務を学び、当時、ベトナムで日本企業初の駐在事務所を開設していた商社「日商岩井」(現・双日)に就職した。