なぜ「硫黄島の遺骨収集」は全然進まないのか、じつは「シンプルな理由」だった
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が13刷ベストセラーとなっている。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
報道関係者の自由行動は認められない
実は報道関係者が硫黄島に上陸すること自体は、認められる機会が毎年数回ある。 外務省が所管する日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式や、防衛大臣など要人による硫黄島視察の時などがそうだ。ただいずれも、自由行動が認められない「同行取材」だ。 前者の場合、取材できるのは式自体のほか、在島自衛官らの案内で参列者と一緒に巡る戦跡のみ。防衛大臣らが視察時に足を運ぶことの多い戦跡も毎回、概ね同じだ。 だから、硫黄島に上陸した記者やカメラマンによって発信される写真は同じような場所になってしまう。見学者用に照明機器が内部全体に張り巡らされた「医務科壕」や摺鉢山の水平砲台などだ。 僕は戦後の新聞各紙の硫黄島関連の報道を調査したことがある。この数十年間の島内の写真は、既視感がある写真ばかりが繰り返し掲載されていた。 僕が目指した「上陸」とは、このような行動制限付きで、短時間しか滞在できない「同行取材」ではなかった。あくまで収集団に加わり、遺族と共に硫黄島の土を掘ることだった。
硫黄島への道を開いた「常夏記者」との邂逅
僕は霊魂を信じない。科学で解明されていないことは信じない。でも「言霊」に関しては、信じざるを得ない。 僕が硫黄島遺骨収集団に加われたのは、まさしく言葉の力が及んだためとしか思えないからだ。東京でさまざまな人と出会う中「硫黄島に──」「硫黄島が──」と念仏のように話題として出し続けた結果、多くの人が助け船を出してくれた。 「そんなに硫黄島に行きたいのなら、栗原さんを訪ねてみてはどうか」。そう助言してくれたのは、先輩記者だった。2018年3月。東京支社に異動した直後のことだった。 「栗原さん」とは、近現代史や戦後補償関連の報道の第一人者として知られる毎日新聞の看板記者、栗原俊雄さんのことだ。 一般に新聞やテレビは1年のうち、原爆投下の日や終戦の日がある8月に戦争関連の報道を集中させる。「8月ジャーナリズム」との呼ばれ方もする。栗原さんの場合、8月ジャーナリズムを年中続けていることから「常夏記者」との異名でも知られる。本格的に戦争報道に取り組みたいと志す記者の中に「毎日の栗原さん」を知らない記者はいないだろう。 栗原さんが2015年に出版した『遺骨 戦没者三一〇万人の戦後史』(岩波新書)を、僕はまだ読んでいなかった。同著を読んで知ったのは、栗原さんが2012年に政府派遣の遺骨収集団に参加していたということだった。過去の新聞各社の記事を検索してみた。現役新聞記者による硫黄島の遺骨収集体験の記事は栗原さん以外には見つけられなかった。 「戦没者遺骨の問題を書いている以上、自分も掘るんだ」 そんな思いで遺骨収集団に参加したと栗原さんの記事にはあった。 偶然は重なった。栗原さんの『遺骨』を読んだ3ヵ月後の6月。シベリア抑留者の遺骨問題などに関する集会が都内で開かれるとの報道発表資料を何気なく読んだ際、登壇者の中に栗原さんの名前を見つけた。僕は迷わず集会会場に向かった。 会場でマイクを握る栗原さんは、鋭い目をした冷静沈着な記者という印象だった。 「毎日新聞学芸部の栗原です。僕は遺骨収容の取材を十数年やっています。シベリアには一度取材に行きました。硫黄島には4回行きました。4回のうち1回は遺骨収容団に参加して実際に遺骨を収容してきました」。そんな自己紹介から始まった講話は、収容した遺骨をすべてDNA鑑定して遺族の元に帰すべきだと問題提起する内容だった。 集会終了後、僕は即座に栗原さんに歩み寄った。名刺を渡し、ほとんど前置きの話をすることなく、ストレートに質問した。 「どうすれば僕も硫黄島の遺骨収集に行けますか」 栗原さんの周囲には、ほかにも名刺交換を待つ人たちがおり、聞くべきことを聞ける時間は短いと判断したからだ。栗原さんは「ぜひ酒井さんも硫黄島に行ってください」と激励してくれた。そして後日、毎日新聞社近くの沖縄料理店で会食する機会を設けてくれた。そこで様々な助言をもらった。その一つは、とにかく粘り強く様々な関係者に当たり続けることだった。 なぜこのとき栗原さんは親身になって対応してくれたのか。その理由はずっと後に本人から聞いた。 「硫黄島の遺骨収容が進まないのは、国民の関心が高まらないからです。国民の関心が高まらないのは、メディアが報じないからです。だから、多くの記者に『皆さん、硫黄島に行きましょう』と呼びかけてきた。でも、本当に行ったのは酒井さんだけですよ」 第一印象とは大きく異なる、笑顔を交えた話し方だった。 僕が調べた限り、栗原さんが遺骨収集団に参加してルポを発信した2012年以降、後に続いた報道関係者は誰一人いなかった。それには理由があった。厚労省の担当者がその理由をそっと僕に明かしてくれた。 つづく「「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」…硫黄島に初上陸して目撃した「首なし兵士」の衝撃」では、硫黄島上陸翌日に始まった遺骨収集を衝撃レポートする。
酒井 聡平(北海道新聞記者)