【光る君へ】母・紫式部に猛反発した「賢子」 貴公子たちと浮名を流し大出世するまで
母親と滅多に会えない生活
それからしばらく、賢子についての記録はほとんどない。だが、おそらくは宣孝を失って間もないころ、賢子が患ったときに、紫式部が母親の気持をこめて詠んだ歌が『紫式部集』に残されている。 「若竹の おひゆく末を 祈るかな この世を憂しと 厭ふものから(若竹のように幼い娘が、無事に成長してくれるように私は祈ります。この世は住みづらいところだと思っているけれど、娘はちゃんと成長してほしい)」 宣孝が死去した年は、年末に皇后定子も急死している。この歌が詠まれたのが定子の生前か死後かわからないが、生に絶望しながらも、わが子の健やかな成長だけは祈るという、親の切実さが表されている。 その後、紫式部は道長に請われ、中宮彰子のもとに出仕した。『紫式部日記』の寛弘5年(1008)12月29日の条に、「初めて参りしも今宵のことぞかし(はじめて出仕したのも同じ日でした)」と書かれており、寛弘3年(1006)か同2年(1005)の12月29日だったと考えられている。おそらく賢子は数え7歳か8歳だった。 『光る君へ』の第37回で描かれた母娘の対面は、寛弘5年(1008)の話である。そのころ賢子は、父親がいないうえに、母親とも2年から3年にわたって滅多に会えない生活を送っていたことになる。ドラマで描かれたように、母親に対して素直になれなくても当然だったように思われる。
数々の貴公子と流した浮名
その後、賢子の消息がはっきりするのは、長和6年(1017)ごろのことだ。数え18歳くらいになった賢子は、母と同じく中宮彰子の後宮に女房として出仕した。ドラマで為時がまひろに言った「おまえによく似ておる」という言葉は、的を射ているのかもしれない。それまでの間、祖父の為時は寛弘6年(1009)、太政官の職である左少弁に任じられ、さらに同8年(1011)には、越後守(佐渡を除く新潟県の長官)として赴任した。このため、賢子は宮廷で「越後の弁」と呼ばれることになった。 文学的才能も母親譲りだったと思われる。鎌倉時代に女性歌人36人の歌を集めた「女房三十六歌仙」には、紫式部と並んで選ばれている。百人一首の歌人でもある。『大弐三位集』という歌集も残している。この歌集には、祖父の為時が訪ねてきたときに慰めの言葉として詠んだという以下の歌も収められている。 「残りなき このはを見つつ 慰めよ 常ならぬこそ 世の常のこと(木に残り少ない木の葉を見ながら、心を慰めてください。葉が散るように無常なのが、この世の常なのですから)」 その後の生き方も、ある意味、母親からの影響が大きかったのだろうか。というのも『源氏物語』よろしく、数多くの貴公子と浮名を流したのである。たとえば、藤原頼宗(道長が第2夫人の源明子に産ませた次男)、藤原定頼(藤原公任の子)、源朝任(道長の正妻である倫子の兄の子)。さらには、道長の次兄、道兼の次男の兼隆と結婚して娘を産んだという説もある。