映画「キングダム」にも登場 秦王・嬴政の政治的ライバルとして“悪役的”に描かれる「呂不韋」が残した“偉大過ぎる功績”とは
知識人の叡智を集約させた書物『呂氏春秋』
始皇5(前242)年に設置した占領郡の東郡は、呂不韋の故郷である濮陽の地を中心とする地域であり、呂不韋が商人として熟知していた土地であった。濮陽は黄河に面した交通上の要地であり、自立した経済力をもっていた。蒙驁(もうごう)将軍の魏地への侵略戦争(始皇3~5年)を続けた結果、占領郡の東郡が置かれることになる。また濮陽は小国の衛の都であった。その君主の衛君・角を殺さずに、一族ともに野王の地に遷す政策も、呂不韋の判断であったと思われる。 呂不韋のもとに集まった食客の数は、誇張はあるが3000人で、かれらは無駄に寝食を与えられたわけではない。豊富な知識や技量を持った人材を自由に活用するために、食を与え客舎に泊める。かれらの知識を収録して二十余万言の書物にまとめたのが、『呂氏春秋』(りょししゅんじゅう)の書であった。これはもともと『八覧』『六論』『十二紀』の三部作が別個に成立した書であり、『十二紀』は始皇6(前241)年に成立、『八覧』は始皇10(前237)年の罷免後に成立したと考えられる。本書を一枚の竹簡に25字ずつ書き記すと、約8000枚となる。 これらを人の集まる咸陽の市場の門前に並べ、東方から来た游士(遊説家)や賓客たちに修正できる箇所があれば、一字ごとに千金(一斤250グラムの金餅1000枚)を与える懸賞金を準備した。完成度の高い書物への自信と、絶えず新しい知識を柔軟に受け入れようとする呂不韋の姿勢の表れである。 とくに『十二紀』は、秦王自身と官吏が1年12ヶ月、春夏秋冬の季節に応じた行事を政治上の指針として記したものである。嬴政がいくら呂不韋を失脚させても、呂不韋の知的遺産は死後も20年以上、成人後の秦王嬴政、始皇帝嬴政の行動の指針となっていった。 『十二紀』の一月孟春には「木を伐るを禁止し、巣を覆くつがえす無かれ(樹木の伐採を禁止し、雛が育ったばかりの鳥の巣を壊してはならない)」とあり、陽気がはじめて生ずる立春は草木が芽生える季節であり、これを遮断させない。睡虎地秦簡の田律の法律には「春二月敢えて材木を山林に伐り、隄水(ていすい)を雍(ふさぐ)毋(なかれ)」とあり、小川の流れを塞いではならないとある。川の魚の卵から生まれる幼魚を保護するための法令である。