映画「キングダム」にも登場 秦王・嬴政の政治的ライバルとして“悪役的”に描かれる「呂不韋」が残した“偉大過ぎる功績”とは
商人として国境を自由に行き来した呂不韋
呂不韋は子楚と邯鄲を脱出し、妻子は遅れて咸陽に入った。呂不韋は昭王の死、安国君(孝文王)の即位と三日後の急死を経て、荘襄王元(前294)年に丞相に就任し、河南雒陽(洛陽)の食邑10万戸を与えられ文信侯と呼ばれた。ちょうど秦が三川郡を置いたときと重なる。 秦の植民地の三川郡は、丞相(相邦)呂不韋の存在と切り離せない。呂不韋の勢力は戦国の四人の封君(ほうくん=魏の信陵君、楚の春申君、趙の平原君、斉の孟嘗君)にも匹敵する。全国から人材を集め、食客3000人を集めたという。その人材の受け入れ口が、三川郡の雒陽であった。呂不韋は最期はみずからの雒陽の領地で鴆酒(ちんしゅ)を飲んで自殺した。 『皇覧』によれば、墓は雒陽の北邙山(ほくぼうざん)にあるという。洛陽には、東に成周城と、西に15キロメートル離れた東周王城という二つの拠点がある。秦の三川郡の役所は西の旧都の東周王城に置かれ、呂不韋個人の雒陽の居城は東の新都・成周城にあり、一定の距離が置かれていた。不韋の食邑10万戸とは、前漢末でさえ雒陽の人口は5万戸強であったので、とても大きな封地である。そこを秦の呂不韋は抑えていたことになる。 里耶秦簡にも「丞遷大夫 居雒陽城中能入貲在廷」というものがあり、断簡で前後は不明であるが、「丞(次官)の遷(名)は大夫(下から第五級の庶民の爵位)で雒陽城の中に居住していたときに(罪を犯したが)貲し(贖罪金)を納入して廷(役所)に止まることができた」という内容であろう。秦の時代の洛陽は、『史記』の史料通り雒陽と記し、呂不韋の封邑雒陽も雒陽城という城郭都市であったことが確認できる。 呂不韋は韓・魏・趙の国境を自由に越えた商人としての国際感覚を持ち、それが若き秦王嬴政の相邦を務めていた時代の外交と戦争に活かされていた。商人として基盤を置いていた韓・魏・趙に軍事的に進出する動きは、十代の若き秦王の意志とはとうてい考えられない。始皇4(前243)年、趙にいる秦の質子を趙から帰国させ、趙の太子を秦から趙に帰している。外交上の一種の断交である。