戦後79年一度も会ったことがない父の面影を探して
絹川さんは生後7か月の時、母に抱かれ戦地へ向かう父の乗る列車を見送りに行ったものの、会うことは叶わなかったと聞いています。 見つけた布の中には、戦地に向かう父が母に宛てた手紙もありました。 「お前たちに一目会えれば結構であるが、会えない場合は致し方がない。くれぐれも身体に気をつけて律子の発育に気をつけてくれ」本当に細やかに、非常にこと細やかにいろんなことを気にかけて書いてありますのでね。ずいぶん心優しい人だったんだなという気持ちはします」 父を供養できるのは残された自分しかいない。それ以来、父を探す日々が始まります。 絹川さんは父のことを『ニューギニアのマノクワリで飛行場の建設中に爆撃を受けて死亡した』と聞いていました。マノクワリはニューギニア島の西側にあり、現在はインドネシア領です。高知市に問い合わせると、その南の『ヤカチ』という場所で戦死したという記録があったため、厚生労働省にも問い合わせますが…返ってきたのは『地図に「ヤカチ」という地名は見当たらない』と書かれた文書だけでした。 「そっけない返事がきましてね、一応、略歴っていうものも添えられておりましたけれども、これに私は納得できずに個人で調べ始めたというのが元で…」 戦争を題材にした映画や書籍などで手がかりを探す中、ヤカチは確かにあり、太平洋戦争末期、ニューギニア島に上陸した旧日本軍が深刻な食糧不足に陥ってヤカチ周辺でも大勢の人が命を落としたことを知ります。 遺品を見つけてから16年。父の最期の場所を訪れたいと願っていた絹川さんに今年1月、思いもよらぬ知らせが届きました。国と協力し、遺骨収集を行う日本戦没者遺骨収集推進協会のヤカチでの事前調査に同行することになったのです。 「私も高齢ですし体調も悪かったんですけれども遺族の代表としていかなければならないという使命感でね」 調査は今年2月26日から11日間の日程で、遺骨収集推進協会のメンバーらとともにインドネシアへ向かいました。
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