戦争体験がハングリー精神の源 オリンピックを目指した高校生が87歳の鉄人ボディビルダーになるまで【金澤利翼(前編)】
「自分で言うのも何ですけど、当時は抜群にいい上半身をしていたと思いますよ。両親に手を合わせて、『5年でボディビル日本一になるから、私を養ってください』と頼みました。定職に就かないわけですから、もちろん簡単には許してもらえませんでした。鉄道員の父からは『お前はサラリーマンの子だから無理だ。日本一にはなれない』と拒否されました。でも、あきらめきれなくて繰り返し懇願し、やっとのことで説得しました」 とはいえ、当時はトレーニングに関する情報はほぼ存在しなかった。本格的な筋トレにも取り組んだことがなかった金澤は、セメントを固めたダンベルを自作し、がむちゃらに鍛えることからスタートした。初めてダンベルを握った時は「どう扱えばいいか、何もわからなかった」と回想する。 「とにかく毎日6時間、1種目20セット、がむしゃらに上げ下げしましたよ。やり方を勉強せねばと思って、外国の『Muscle Builder』という雑誌を本屋で買いはじめました。なんせ全部英語ですからね。辞書で英単語を引っ張り出してひとつずつ覚えていきました。海外の選手はこういうトレーニングをしているのかと感心しながら、毎晩勉強です。好きなことですからね。もう力を入れて勉強しましたよ」 ジムはもっぱら軍隊の施設に通った。3年間通い詰めたのは米海兵隊岩国航空基地だ。当時最新の機材が揃ったジムで鍛えていると、金澤の体に注目した兵隊たちから声をかけられることもあった。最先端のマシンも研究し、使い方を習得した。そうした努力の日々は嘘をつかなかった。
「3年間鍛えて日本選手権に出場しました。すぐに優勝はできませんでしたけど、計画通り5年目で1番になりました。その頃のトレーニングが私のボディビルダー人生のベースです」 その後も国内外で輝かしい成績を残した金澤は、広島県初となるトレーニングジム「広島トレーニングセンター」を創立。会長職に就くとともに競技を離れることになる。だがそんな中でも、選手としての心の炎は消えていなかった。 (後編に続く)
取材・文/森本雄大 写真提供/金澤利翼 写真(大会)/木村雄大