東京と鹿児島、元バレー女子日本代表の迫田さおりさんが2拠点生活をする理由 人生の節目でそっと寄り添ってくれた…
バレーボール女子元日本代表・迫田さおりさんコラム「心の旅」
好きな言葉は「心(こころ)」だという。バレーボール女子元日本代表のアタッカー、迫田さおりさんは華麗なバックアタックを武器に2012年ロンドン五輪で銅メダル獲得に貢献した。現役引退後は解説者などで活躍の場を広げながら、スポーツの魅力を発信しようと自身の想(おも)いをつづっている。 ■ブランドアンバサダーを務めるミズノのバレーボールシューズをPRする迫田さん 5月12日の「母の日」に、ふと思い出しました。母の卵焼きです。高校時代はお弁当にも必ず入っていました。甘すぎず、飽きの来ない素朴な味…。父はもちろん、二つ上の姉や2人の弟も大好きでした。決して特別なものではなくても、迫田家の定番料理です。にぎやかな食卓の雰囲気を彩ってくれました。 そんな日常が「幸せ」だったんだと気付きました。鹿児島の高校を卒業し、実家を離れて滋賀でプレーした東レ時代のことです。誰も出迎えてくれない真っ暗な寮の部屋が寂しくて、最初の頃は母に電話をかけていました。その回数が徐々に減っていきました。
姉にしがみつくように配信動画を
ある時、携帯電話の向こう側から伝わる、だんらんの様子が逆につらくなったんです。母も何かを察したのでしょう。メールも途絶えがちになりました。知らない土地での初めての寮生活。引っ込み思案な私の性格も知っています。元気で過ごしているのか確かめたい気持ちをぐっと抑えて、連絡してこなかったのだと思います。母も私もお互いの声を聞いたら、感情があふれ出たかもしれません。想(おも)いを巡らせながらも距離を保ち、私を優先してくれた心遣いが母の優しさでした。 母は姉にしがみつくようにして、試合の配信動画を見ていたそうです。一緒に戦ってくれていたんですね。29歳でコートに別れを告げた私の引き際も、気になっていたはずです。「もうちょっとやれるのでは…」との本心を覆い隠し、最後まで「さおりの好きなように進みなさい」と、温かく見守ってくれました。 私自身、プレーヤーとして完全燃焼できました。悔いもありません。現役晩年は、引退が遠くないことを家族も感じていたようです。鹿児島の近くで開催される試合には応援に来てもらいました。「チケットはどうする?」。普段から連絡をしていなかった私にすれば、重いひと言でした。 両親は今、66歳です。現役だった11年間は一緒に過ごすことができず、帰省するたびに「年を取ったなあ」と実感していました。だからこそ、競技生活にひと区切りをつけたら2人のそばにいようと決めていました。現在は東京との2拠点生活を送り、鹿児島では実家で同居しています。