源頼朝の妻「尼将軍」北条政子は、嫉妬深い“悪女”だったのか
■ 「攻撃は最大の防御なり」 さて、頼朝は亀の前を、遠方から近くに引っ越させます。今度は、伏見広綱の邸に住まわせたのです。だが、そのことにより、亀の前の存在が、政子に露見してしまいます。政子の父・北条時政の後妻・牧の方が、政子に頼朝愛妾の存在を囁いたようです。政子は大層、憤り、亀の前が住む伏見広綱の邸を襲撃させ、破壊させたのです。広綱は亀の前を連れて、脱出することができました。 政子が、亀の前の命まで狙おうとしたのかは分かりません。邸を破壊し、恥辱と恐怖を与えれば、亀の前は身を引くだろうと考えた可能性もあります(『吾妻鏡』によると、亀の前は柔和な女性とのことです)。 このような騒動があっても、頼朝は亀の前のところに泊まっているのですから、頼朝という男も胆が太い。同年12月10日、亀の前は、元々いた小中太光家の邸に移住します。亀の前は、騒動後、政子の「御気色」を頻りに恐れていたといいますから、その事も大きいでしょう。それから、6日後、亀の前を住まわせていた伏見広綱は、突然、遠江国(静岡県西部)に配流となります。政子の憤りのためと『吾妻鏡』は記します。 その後、亀の前の名は『吾妻鏡』には見えず、彼女がどうなったのかは不明です。が、政子の「勝利」となったことだけは確かです。この一連の出来事を見ていくと、最初に紹介した新田義重が娘を頼朝にはやらず、他家に嫁がせたことが、如何に「賢明」かが分かります。娘を嫁がせていたら、大なり小なり、亀の前と同じような運命を辿ったことでしょう。 頼朝は、幕府に仕える女官(大進局)にも手を出し、文治2年(1186)に男子(貞暁)を産ませています。ところが、大進局の妊娠に気付いた政子を憚り、頼朝は、大進局を家臣に預け、その家臣の邸で出産させているのです。出産の儀式も省略されました。政子の目があったため、この母子は人目を憚るように生きねばなりませんでした。 その後、貞暁は京都・仁和寺で出家。仏門に入るのです。頼朝の女性問題に対する政子の態度は「嫉妬深さ」から解釈されることも多いようですが、嫉妬深さだけをクローズアップするのは間違いだと思います。そうではなく、政子は自分のライバルとなるべき女性を次々と蹴落としているのです。 源氏の血を引く貴種・頼朝に対し、政子は伊豆国の小中豪族の娘。「正室」と言えども、立場は不安定なものだったと推測されます。前述の新田義重も源氏ですが、その娘が頼朝の男子を産んだ場合、大仰に言えば、政子とその子の存在が消し飛んでしまう可能性すらありました。 「源氏の娘から生まれた男子を後継に」と頼朝が考えることもありえます。亀の前にしても、どこかの豪族の娘だと考えられますが、それでも(特に男子を産めば)、政子にとって変わる可能性もあった。そうした「不安」が、政子を、これまで見てきたような行動に走らせたように思うのです。それは一種の「防衛本能」と言っても良いかもしれません。「攻撃は最大の防御なり」で、政子は頼朝の愛妾に攻撃と圧力を巧みにかけつつ、勝ち抜いてきたのでした。
濱田 浩一郎