900人超が犠牲に、「人民寺院」集団自殺事件とは何だったのか 米カルト教団が招いた惨劇
人種平等の理想
1954年、ジム・ジョーンズは米インディアナ州で、後に人民寺院と呼ばれるようになる教会を開いた。人民寺院は、社会主義、共産主義、キリスト教に基づき、平等を推進して、様々な人種の人々を引き寄せた。ジョーンズはエンターテイナーのような堂々とした振る舞いで人々を改宗させ、心霊治療を行って信者を集めた。 会員の大部分が黒人で占められていた教会は、人種平等を目指し、黒人の宗教的伝統を取り入れた。これに関して、ジョーンズタウンと人民寺院についての著書のある学者のレベッカ・ムーア氏は、「文化的にも人種的にも黒人の運動だった」と指摘する。 ジョーンズのカリスマ性とビジョンは、俳優のジェーン・フォンダや公民権運動家のヒューイ・P・ニュートンといった著名な活動家の注意を引き付けた。カリフォルニア州サンフランシスコの政治団体にも支援され、1965年に、人民寺院はサンフランシスコに移転する。
ガイアナの密林への移住
ところが、一連の報道でジョーンズの心霊治療の嘘が暴かれ、さらに虐待の疑いが持ち上がると、ジョーンズはこれを米国が人民寺院と自分を貶めようとしている兆候だと感じるようになる。ジョーンズの薬物使用がその疑心暗鬼をさらに強め、政府は教会を狙っているとか、ファシストに転向しようとしているなどと思い込んだ。 やがてジョーンズと教会指導部は、自分たちの未来は米国外にしかないと確信する。 1974年、人民寺院はガイアナの密林に土地を取得した。ガイアナの公用語は米国と同じ英語であり、人種もアフリカ系、アジア系、先住民族の子孫などが入り混じっていたことから、多人種のユートピアを作るには最適の場所だと、ジョーンズは信じた。そして、ここで自分たちの価値観を生きるための農業コミューンを建設する計画を立てた。 1977年夏、ジム・ジョーンズは人民寺院の教会員たちを大量に引き連れてガイアナに移住した。
ジョーンズタウンでの暮らし
1978年11月には、ジョーンズタウンの人口は1020人にまで膨れ上がっていた。ムーア氏によると、最も多かったのは黒人女性と女児で、全体の人口の45%を占めていたとされる。男性もあわせると、黒人は68%を占めていた。また、コミューンの大部分が若者で、35歳以下が63%、12歳未満の子どもは152人だった。 調理人、大工、エンジニアなど、全ての人が何らかの役割を担っていた。教師は子どもを中心とした指導を行い、数学、国語、ガイアナの歴史などを教えていた。年齢が高い生徒たちは、職業訓練プログラムに参加した。 敷地内には発電機が設置され、寮のようなキャビンと共同キッチン、図書館、医療センターなどがあった。オーディオシステムも整い、敷地内ではしばしば拡声器からジョーンズがアナウンスする声が響き渡っていた。 毎晩のように開かれる参加必須の集会のほか、住人たちはスポーツ、ダンスと音楽、映画鑑賞など様々な活動に参加した。 最初の頃、一部の人々はジョーンズタウンでの生活を楽しんでいた。「電気が引かれ、きれいな住宅に無料で住むことができました。必要な食料も全て供給され、医療も充実していました」と、人民寺院の会員だったユランダ・ウィリアムズさんは振り返る。「本当に素晴らしい場所でした。安全で安心できるユートピアでした。よりよい生活を実現し、お互いに助け合う幸せな大家族だったのです」