『ゴジラ-1.0』に登場した幻の戦闘機「震電」 開発元が今も受け継ぐベンチャー精神
映画『ゴジラ-1.0』で切り札として活躍した局地戦闘機「震電」。実際には、太平洋戦争末期、アメリカ軍のB29爆撃機に対抗するために開発され、実戦に臨むことなく終戦を迎えたことから「幻の戦闘機」とも呼ばれています。開発を担った九州飛行機は現在、「渡辺鉄工」として産業機械を手がけており、7代目として承継予定の渡辺雄輝さんは「1886年創業の老舗でありながらもベンチャー精神は今も引き継がれています」と話しています。 【写真特集】キャラクターの力で成長した中小企業
渡辺鉄工の技術顧問が見た「震電」
「J7が飛ぶぞ」。終戦間際の1945年8月3日、当時10歳だった渡辺鉄工OBの岡田正弘さんは、街中から席田(むしろだ)飛行場(現在の福岡空港)を試験飛行する「震電」(略符号:J7W)を見ていました。 渡辺鉄工の会社案内には、震電の試験飛行の様子がつづられています。 「昭和20年8月3日、いよいよ初飛行の日。空は美しく晴れわたり、風もなく絶好の飛行日和となりました。『行ってまいります』。整列した役員や技術者たちに向かって、バイロットが敬礼。プロベラがゆっくりと回りはじめました。ふわりと機体が浮き上がった瞬間、人々の間から万感の思いを込めたため息がもれ、続いて『万歳!』の声が上がりました」 一方、岡田さんの記憶に残っているのは、機体を右に傾けたりしながら、低空をゆっくりと試験飛行する姿でした。その後、渡辺鉄工に入社した岡田さんは「会社には一流の技術者たちが集まっていました」と振り返ります。 岡田さんは、後の主力事業となる自動車用鉄ホイール生産設備事業の立ち上げ時に設計リーダーを務め、当時の最先端となる事業の礎を築きました。今は技術顧問として培った技術と歴史を社員に継承する立場にあります。
震電を一気にリアルに感じた『ゴジラ-1.0』
太平洋戦争末期、渡辺鉄工の前身である九州飛行機に、海軍(当時)から震電の製作依頼がもたらされました。提示された課題は、B-29などの重爆撃機を迎撃する高性能な局地戦闘機をつくること。 型式は単発·単葉、先尾翼式。要求性能は高度8000mまで10分30秒以内で上昇し、高度8700mを時速740km以上で飛行できること、実用上昇限度1万2000m以上、武装は30mm固定機銃1型乙4挺。既成の概念では、実現できない要求性能だったといいます。 それでも140人からなる開発チームは製作依頼からわずか1年、製図30万枚、2万工数で一号機を完成させ、試験飛行までこぎつけました。 そんな震電の歴史はほとんどが口伝でした。終戦時に九州飛行機の軍用機に関する膨大な資料は、連合国軍総司令部(GHQ)により焼却、破棄されたためです。現存する震電はアメリカのスミソニアン航空宇宙博物館に保管されています。 渡辺鉄工の7代目候補渡辺雄輝さんは「誇りはあるものの、震電を想像するしかない、昔すぎるといったなどの理由でピンと来ていない社員が私を含めて多かったのです」といいます。 そんな震電が『ゴジラ-1.0』では、力強く飛んでいました。太平洋戦争の敗戦から間もない1947年。神木隆之介さん演じる敷島が、日本の存亡をかけて震電へと乗り込む姿が描かれています。映画には、渡辺鉄工も協力しています。 渡辺さんは『ゴジラ-1.0』を観た同僚と「震電すごかった」などと感想を話し合いながら次のように感じたといいます。 「作中で力強く飛び回っている震電の姿とエンドロールで自社の名前を見ることができて、震電を一気にリアルに感じることができました。実際は、必死に開発した三機の震電は活躍することなく終わりましたが、作中で再度命を吹き込んでいただきました。同僚はもちろん、ご先祖様や九州飛行機の皆さんが観たらとても喜ぶだろうなと思って観ていました。私と同じようにピンときてなかったところ、誇りに変わった社員は多いと思います」