北朝鮮の水害現場はどこもトラックやショベルカー…「重機なし」の報道も形無し(2)
(1の続き) ■苦痛は分かち合い難く、暮らしは厳しい 鴨緑江(アムノッカン)は朝中国境に時には豊かさを、時には苦痛を与える。「自らそのような」自然のひょう変を幸または不幸にするのは人間、より正確には社会だ。苦痛は分かち合い難し。江辺公園では丹東の市民たちが普段通り朝の体操をしているが、対岸の下端里(ハダンリ)の壊れた家は、強い夏の日差しの下でも色を失ったままだ。鴨緑江断橋(タンギョ)の下から出る遊覧船は「指針」に則り、普段とは異なり威化島(ウィファド)の方へは行かない。朝鮮戦争での米軍の爆撃で切断された断橋は、習近平時代の「虹色観光」(社会主義愛国観光)の主要舞台だ。船着場の商人は「北朝鮮の要請があったと聞いている」と語る。被害を見せたくない北朝鮮の要請が先なのか、隣人の苦痛を見せ物にしないという中国当局の配慮なのかは分からない。 苦痛を分かち合うことの難しさは、同じ共同体の中でも違いはない。水豊湖(スプンホ)の放水で倒れた国境の鉄条網を起こそうと必死になっている人民軍のそばで、川に飛び込んで投網をする人たちの姿が目に入った。慈江道満浦市(マンポシ)北の文岳洞(ムナクトン)の川辺の野では、北朝鮮の数十人の農民が、降り注ぐ雨の中で秋の種まきに忙しい。暮らしは厳しい。 ■大都市と農村の開発は続く にもかかわらず、鴨緑江沿岸の北朝鮮の風景の変化は大きく速い。新義州市(シンウィジュシ)の円筒形をした三つ子の住商複合マンションの間に2棟が新たに建つなど、新築の高層ビルが多数目につく。両江道の道庁所在地である恵山市(ヘサンシ)には「今年に入って20棟あまりの高層ビルが新たに建てられた」と、対岸の長白県の商人は語る。 昨年秋、三水郡(サムスグン)の川辺の農村では、「突撃隊」による崩壊した平屋建て長屋の撤去作業が行われていたが(2023年10月4日付ハンギョレ1、4、5面)、いつの間にか3、4階建ての多くの農村文化住宅が新たに建てられていた。11カ月での変身だ。三水郡は、非常に困難な境遇に追い込まれたことを意味する「三水甲山(カプサン)に行こうとも」という比喩を生んだ朝鮮半島の奥地中の奥地だ。平安北道定州(チョンジュ)生まれの詩人の白石(ペクソク)が「派遣」の名のもとに配流され、協同農場でつらい労働をさせられた地域でもある。 鴨緑江沿岸のすべての地域が急速に変化しているわけではない。新義州や恵山のような大都市と沿岸の農村には新しい建物が急速に建設されているが、満浦市、金亨稷邑(キムヒョンジグプ)、金貞淑邑(キムジョンスグプ)のような中小都市には目立った変化がない。韓国のイ・ジョンソク元統一部長官は、「金正恩(キム・ジョンウン)式のセマウル運動で都市と農村の格差が縮まっている一方で、大都市と中小都市との間の発展の偏差が拡大することもありうるだろう」と指摘した。 ■水害と農村開発のはざまで 鴨緑江沿岸の北朝鮮の農村は、「古い家を壊して新しい家を建てる」という希望と、残酷な水害という絶望のはざまのどこかにある。中国吉林省臨江市の望江村と鴨緑江を挟んで向かい合う慈江道中江郡(チュンガングン)の農村は特にそうだ。7月下旬の鴨緑江の氾濫では川辺にあった大木が流され、大型の施設(青い屋根)と多くの住宅が破壊された。2023年9月下旬と比べると、原色の村の風景は色を失っている。写真中央左上のオレンジ瓦の10軒あまりの新しい家と、村の外郭の4階建ての新しい家の存在は、この村が再開発のさなかに水害に襲われたことを証言する。国境地帯の北朝鮮の村を長きにわたって観察してきたある北朝鮮研究者は、「この村は鴨緑江沿岸の北朝鮮の現実、変化、指向を見せてくれる象徴的空間」だと語った。中江郡は朝鮮半島で最も寒い地域だ。この村の人々が、冬の到来前に新しい家を建てて寒さをしのげるかは知る由もない。村の左の砂地では、住宅用のレンガを作る人と重機が忙しく動いている。金正恩委員長は「(復興)住宅の建設が終わり、生活が安定するまで2、3カ月」が必要だと述べている。(3に続く) 文・写真/イ・ジェフン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )