「釣りキチ三平」矢口高雄が鳴らす現代社会への警鐘 “マタギ”の歴史や風習を調べ尽くした不朽の名作は現役猟師の「バイブル」に
銀行員を経て漫画家に
ここで矢口さんの経歴を追ってみたい。 1939(昭和14)年、奥羽山脈のふもと秋田県西成瀬村(現・横手市)生まれた。本名・高橋高雄。4歳のとき、宮尾しげをさん(1902~1982)の漫画「西遊記」(1925年)を読み、孫悟空など登場人物の顔をまねて描くようになる。 戦後は手塚治虫さん(1928~1989)の漫画に夢中になった。高校卒業後、東京・浅草のブラシ工場に集団就職が内定していたが、「親に恩返しするのは当たり前」と地元の銀行に就職した。 銀行とはいえ、コンピューター化が進んだ今日と違って、何から何まで手作業に頼る時代だ。紙幣勘定の流麗さとソロバンの速さを競った時代でもあった。銀行業務の基本そのものは今も昔も変わりはないが、ただ、手作業ゆえに生々しい人間味の濃かった時代とも言えよう。 そんな昭和の普通の銀行員生活を過ごしていた矢口さんだったが、30歳のころ、転機を迎える。まさにそれは突然だった。というより、漫画の神様によって導かれたと言ったほうがいいかもしれない。 細かく詳細は省くが、銀行員時代に描いた漫画は、あまり評価が良くなかったらしい。だが、赴任した支店の前の本屋に「月刊漫画ガロ」が並んでいた。そこに掲載されていた白土三平さん(1932~2021)の「カムイ伝」(1964~1971年)に感動。漫画家になりたいという思いが再び膨らむ。 1970年、13年間の銀行員生活を経て30歳で上京。漫画家としては遅いデビューだが、74年に「釣りキチ三平」と「幻の怪蛇バチヘビ」で講談社出版文化賞の児童まんが部門賞を、76年に「マタギ」で第5回日本漫画家協会賞大賞を受賞した。 右手一本で妻子を養っていかないといけない不安。自分に何が描けるのか模索する日々が続いた。私は20年12月19日の朝日新聞夕刊「惜別」で書いたが、「描くたびに新鮮で、考え得る限りの試みを惜しげもなく傾注することとなった」と周囲に語っていたという。 「マタギ」に登場する辰五郎の孫でシカリ(頭領)を務める鈴木英雄さんは「マタギの歴史や風習を調べ尽くしていた。だからこそ細かな情景描写ができたのだろう」と矢口さんの努力を語る。 「誠実な人だった。『知らないことを知ったかぶりして描くことはできない』と徹底して現地で取材し、事実に迫った」。こちらは編集者時代に幾つかの作品を手がけた中央公論社の元社長・嶋中行雄さん(78)の意見である。