天皇からも藤原家からも頼られる安倍晴明の「ウラの顔」 本当に陰陽道の達人だったのか?
■師匠の手柄を乗っ取った策謀家だった?! 晴明が世に知られるようになったのは、960年に内裏で起きた火災が契機となったと見なされることが多い。温明殿に安置されていた二振りの霊剣(護身剣と破敵剣)が焼失したため、その複製の製作を命じられた晴明が、見事ことを成し遂げて褒め称えられたというものであった。彼がその剣に霊力を吹き込んだことが賞賛され、一躍スーパースターの座を獲得したという訳である。 ちなみに霊剣とは、鍛治らの手によって仕立て上げられた剣に、陰陽師が霊力を宿らせるための呪術を施してようやく完成する。その役割を果たした陰陽師が敬われるのは、至極当然のことであった。 しかし、問題はこの時、本当に晴明が後世に伝えられたほどの輝かしい働きをしたのか?という点であった。960年といえば、晴明は、前述のように天文得業生であった。当然のことながら、勅命を受けて製作に当たったのが彼であったわけではあり得ない。 命じられたのは、晴明の師匠筋にあたる賀茂保憲で、晴明はその弟子として手伝っていただけであった。41歳の頃、晴明が陰陽師に昇進することができたのも、おそらくはこの一連の作業に携わったことが評価されたからだろうが、それでも、最大の功労者として評価されるべきは、賀茂保憲のはずである。 問題は、ここからだ。本来評価されるべき師匠・賀茂保憲の功績を、あろうことか、弟子の晴明が横取りしてしまったと、そう指摘する声が少なくないのだ。前述のように、天文得業生であった晴明が最大の功労者として評価されるのは、本来ならあり得ない話だからである。 では、晴明はどのような策を弄して、師匠の功績を乗っ取ったというのだろうか? 彼が動いたのは、賀茂保憲が亡くなった977年から、さらに十数年が経過した頃のことだったという。内裏での火災や霊剣複製のことを知る人物がいなくなってきた、そんな頃だ。 いよいよ好機到来とばかりに、晴明が、自分こそがその時に宣旨を受けた陰陽師の中心人物であったかのごとく吹聴し始めたのである。晴明の策にはまって、多くの人がこれを信じた。師匠の功績を横取りした上で、それをもとに、自らの名を世に売り出すことにも奔走していったというのだ。 ■長寿でスーパースターに もちろん、それ以降、晴明が重く用いられたことは言うまでもない。花山天皇に直接仕える蔵人所陰陽師に任じられた他、摂関家である道長にも事あるごとに呼び出されては、占いや邪気祓いを依頼されるなど、何かにつけて頼りにされていったのだ。 その後、反閇という印を結んで呪文を唱えながら独特の足運びで歩行する呪術を編み出した他、冥土の神様である泰山府君を祭りあげて、延命を祈願するという新たな呪術を駆使することで、絶対的な信を置かれるようになっていった。 つまるところ、前述したような策を弄したというのが本当だとすれば、彼は実力でスターの座をつかんだのではないということになる。むしろ、自らを売り出すための有能なプロデューサーだったというべきか。 さらに、彼にとって重要な要素がもう一つあった。それが、長寿である。実力者であった師匠の賀茂保憲は早々に亡くなってしまったのに対して、晴明は当時としては驚異的ともいえる85歳まで生き延びることができた。 彼が策謀によって名声を得、その後十数年にわたって活躍できたというのも、全ては、長寿でなければ成し遂げられなかったはずである。良くも悪くも、彼は長生きすることで、あくどいとは言うものの、自身の手で運を掴み取っていったのだ。 彼の死後は、陰陽道の大家としての名声を勝ち得た安倍家(後の土御門家)の手によって、その始祖とも言うべき晴明をさらに超人化。文殊菩薩の化身とするなど、手を尽くして、彼を史上最高のスーパースターへと祭り上げていったのである。 画像出典:菊池容斎 (武保) 著『前賢故実』巻第5,郁文舎,明36.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/778241 (参照 2024-02-26) 編集部にてトリミング
藤井勝彦