藤原道長の「権力」の源泉は、彼を取り巻く女性たちの力にあった...「後ろ盾」「身分」「生まれ年」の意味とは?
<男性が女性のもとに通う招婿婚(しょうせいこん)という家族形態においては、適齢の女性たちの存在が摂関政治の中では重要な意味を持った...>
天皇と姻戚関係を保つことで絶大な影響力を得てきた藤原道長。その権力の源泉は、道長を取り巻く女性たちによってもたらされたと言っても過言ではない。 【図】道長を取り巻く女性たちの家系図 平安最強の権力を支えた女性たちとは。本郷和人著『平安最強の貴族・藤原道長と源氏物語の謎』(宝島社)より「藤原道長と女性たち」を抜粋。 ■女性の力が物を言う平安時代の貴族社会 【編集部注:男性が女性のもとに通う】招婿婚(しょうせいこん)における家族形態を基礎に置く藤原氏の摂関政治は、天皇に入内する適齢の女性の存在が不可欠であった。 藤原道長の絶大な権力の背景には、こうした女性たちの存在があったと言える。特に若き道長を支えたのは、彼の同母姉である詮子(せんし)の存在だった。 当時は婿取婚であるので、結婚した男子は家を出て、妻の邸に移り居住する。道長の兄・道隆も道兼も早い時期に兼家一家の住まいである東三条第を出ていた。 末子の道長は、当時としては晩婚であったため、かなり長い期間、この東三条第で、姉の詮子と同居していたのである。道長と詮子の親密さは、兄の道隆・道兼とは比べようもないほどのものだったと想像できる。 道長が、道隆の系統である中関白家(道隆流)らとの政争に勝利し、内覧になることができたのも、詮子の後押しがあったからこそとされている。 ■藤原道長が愛した女性たち 道長が正式な婚姻関係を結んだ妻は、左大臣源雅信の娘・倫子(りんし)と、左大臣源高明の娘・明子(めいし)の2人である。 永延元(987)年12月に道長と倫子は結婚。道長は当初、倫子の住まいである土御門第に通ったが、義父の雅信らが本宅を一条殿に移す。 その後、この土御門第が、道長夫妻の本宅となった。結婚の翌年にはすぐに長女・彰子が誕生している。のちに入内する一条天皇は当時9歳であったことから、すぐに彰子が生まれたのは大変な幸運だったと言えるだろう。 彰子の存在が、道長がのちに絶大な権力を手にするために重要な役割を果たしたことは、述べた通りである。 倫子はその後、長男でのちの関白である頼通、三条天皇の皇后となる姸子(けんし)、次男・教通、後一条天皇の皇后となる威子(いし)、敦良親王(のちの後朱雀天皇)に入内する嬉子(きし)を、相次いで産んだ。 このように倫子の娘たちは、いずれも天皇・皇太子に入内し、また彼女の産んだ男子が、道長の後継者となった。 対して、明子もまた道長との間に6人の子をもうけている。ただ、男子の初叙の位からその後の昇進、女子の結婚相手の身分においては、倫子との間に生まれた子供たちと明確な差があった。それゆえ、あくまでも倫子が正妻であり、明子はその次に位置する二番目の妻と考えられる。 さて、正式な婚姻関係にあった倫子・明子の他に、道長は平安貴族のご多分に漏れず、多くの愛人がいたとされる。藤原為光の娘である儼子(たけこ)と穠子(じょうし)は、姉妹で道長の愛人であったと考えられる。 儼子は花山上皇の寵愛を受けた女性で、上皇の崩御後には、道長の娘・姸子の女房となった。『大鏡』では道長の子を懐妊したとされているが、それが事実かどうか、また実際に出産にまで至ったのかどうかは定かではない。 また、妹の穠子については、『小右記』に道長の子を懐妊していることが記されている。妊娠18カ月を過ぎても出産に至らなかったことを考えると、想像妊娠の類であったと見られる。 また『尊卑分脈』からは、道長との間に男子を産んだ源重光娘との関係が窺い知れる。
本郷和人(東京大学史料編纂所教授)