「東京大空襲」から70年 どんな空襲だったのか 早稲田塾講師・坂東太郎のよくわかる時事用語
真夜中の東京に突然B29爆撃機の大群が現れ、大量の焼夷弾で首都を焼き尽くす――。今年の3月10日で70年を迎える「東京大空襲」では、短時間で多くの一般市民の命が失われました。太平洋戦争末期にアメリカ軍によって行われたこの空襲は、広島や長崎の原爆投下に比べると、被害状況や凄惨な実状が決してよく知られているとはいえません。どのようなものだったのでしょうか。 【画像】高齢化する戦争体験者「伝え残したい」
100回以上あった東京空襲
1941年(昭和16年)の日本軍によるハワイ真珠湾攻撃で実質的に始まった対米戦争は、翌年のミッドウェー海戦で海軍が敗れ主導権を失い、43年初頭のソロモン諸島ガタルカナル島の敗北で劣勢となり、厳しい戦局となりました。1944年のレイテ沖海戦で海軍は実質的な戦力を喪失し、北マリアナ諸島のサイパン島も米軍に奪取されました。この島から日本のほぼ全土を直接空爆できるので、以後一層、日本本土への「空襲」は盛んに行われるようになります。主役となったのはボーイング社製造のB29大型長距離爆撃機。対抗するには陸上からの高射砲や陸海軍の戦闘機ですが、高々度を飛べるために防空は困難を極めました。 サイパン島やグアム島が陥落して以降、米軍は速やかに飛行場を整え、44年11月ごろからしきりに東京へも空襲をかけています。最も被害が大きかった東京大空襲以外にも首都圏を襲った空襲は日本がポツダム宣言を受諾した1945年8月15日当日まで断続的に行われ、通算すると100回以上あったとされています。
「3月10日」の大空襲
今の墨田、江東、台東区など下町地区を対象として行われました。本来、爆撃の目的は軍需拠点の破壊ですが、町工場が点在し、有効な拠点攻撃が難しいという点を踏まえて、道路などのインフラもまとめて破壊し尽くすというエリア爆撃を採用しました。午前0時から約2時間、300機以上のB29が飛来して約10万人の死者を出したのです。 この攻撃の主な特徴は夜間に、凄い数の爆撃機が、超低空からもっぱら範囲を焼き払うのに徹したという点です。米軍は攻撃地域を事前に十分に研究し、関東大震災のケースも踏まえて何よりも木造家屋が多いので「火」に弱いと確信し、日本の家屋用に開発したM69焼夷弾を圧倒的な量投下しました。都市を焼き尽くす作戦と言ってもいいでしょう。 狙いはズバリと当たり、死者数の約10万人は奇しくも関東大震災の被害と匹敵します。墨田区と江東区に一番大きな被害が出ました。当時は北西の強風が吹いていたために、燃えさかる炎同士が合流して大火災を生み出しました。亡くなった方の多くは焼死や窒息死です。難を逃れようと隅田川や荒川に飛び込んだまま溺死した人も大勢いました。被災家屋は約27万戸。通常兵器を用いた単独の空襲で記録された死者数は世界最大です。 真夜中に突然、とんでもない量の火災のみを目的とした焼夷弾が低空から密集地帯にばらまかれたのですから阿鼻叫喚の地獄絵図と化しました。死者の7割が身元不明で、65%が男女の区別すらつかなかったとされているのを考えるだけでも、いかに凄惨な状況であったかわかります。焼失面積は東京ディズニーランドの約80倍です。