3200年前のヨーロッパ最古の戦場跡、「外国人戦士」も参戦か すでに大国の戦争だった?
「青銅器時代の崩壊」に吹き荒れた暴力か
古代の戦場が発見されるまでは、多くの専門家が、青銅器時代はおおむね平和であり、交易こそが文化発展の最も重要な要素であったと考えていた。 しかし、トレンゼ川渓谷遺跡での発見は、「大規模かつ暴力的な紛争が青銅器時代の生活の一部だったことを示しています」とテアベルガー氏は言う。 この時期のヨーロッパは大々的な文化的変化を経験していた。おそらくはそれがこうした紛争の一因だろう。テアベルガー氏は、中央ヨーロッパの広範囲に見られ、外国人戦士たちの起源かもしれない骨壺墓地文化の研究でその兆候を見出している。 「紀元前13世紀にいわゆる骨壺墓地文化への移行が起こった際には、宗教と政治が大きく変化しました。当時の社会変革は、予想以上に暴力的なものでした」と氏は言う。 インゼルマン氏によると、同時代のドイツのほかの考古学遺跡からは、それ以前の遺跡よりも多くの矢じりが見つかっている。これも暴力的な紛争がより頻繁に起こっていたことを示唆していると付け加えた。 その理由はわかっていないが、地中海地域の諸大国がおそらくは気候や病気などにより衰退した「青銅器時代の崩壊」とほぼ同時期の出来事であり、同様の社会的な課題がヨーロッパの一部にも影響を与えた可能性がある。 多くの考古学者は、青銅器時代のヨーロッパでは戦争が頻繁に行われていたと考えている。この時期には数多くの要塞が建設されており、特にドイツやブリテンでは要塞が丘の上に建てられ、大規模な軍隊がそれを守る必要があった。 「大規模な軍隊を必要とする建造物が増えていたように思われます」とモロイ氏は言う。「同時に、大きな軍隊が戦うことを可能にする軍事技術が発展していました」
文=Tom Metcalfe/訳=北村京子